20130129

チャンピックスなしで

昨日(1月28日)で断煙も12週を突破した。

この週は断煙を開始してから、初めてチャンピックスなしで過ごした1週間でもあった。

結果はどうだったか?と言うと、余り変わりは無かったというところ。

時々、若干強めの喫煙衝動があるが、我慢出来ないものでは無い。その他はチャンピックスを服用していた頃と殆ど変化なしに過ごす事が出来た。

好発進と言って良い。


断煙を始めてから、煙草の匂いが気になるようになった。

これは予期していなかった事だった。


断煙には常に予期しない出来事が待ち受けている。
その「想定外」の出来事に右往左往してじっくり味わうのが断煙の醍醐味だ。


住んでいるアパートの1階部分にはパチンコ屋があるのだ。
最近のパチンコ屋は煙草にも気を遣っている。だが、どうしようも無く暖房の熱気と共に階段を煙草の煙が這い上がってくる。

這い上がってきた煙は、丁度最上階にある私の住居入り口付近で屯する。

それがどうにも気になって仕方が無い。

チャンピックスなしで断煙を始めた頃、わざと吸いに行った煙である。だが、それが嫌で最近はドアを開けなくなってきた。それどころか、吸うのが嫌で、外出もしなくなってきていた。

これでは断煙の醍醐味、日々の変化を味わう事が出来なくなってしまう。


東京から10年来の友が近くまでやって来ていた。

逢う事にした。

その為には煙草の煙の廊下を突っ切って行かねばならない。
決死の覚悟である。
その効果はすぐに出た。
煙草の煙というものは、金属的な味がするものだ。その事を知った。そしてトゲトゲしている。

こんなものを良く吸っていられたものだと思う。煙草の煙よりも排気ガスの方がまだ円やかだ。


友は止めたばかりの私を気遣って、喫茶店でも煙草を吸わずにいてくれた。知的なだけではなく情に篤い男である。

彼は家にいる時は煙草を吸わないのだそうだ。
外に出ると吸う。

喫煙者だった私だが、この感覚はよく分からない。私はどんな環境下でも1時間おきに煙草を吸っていた。

そういう習慣になっているので自宅では吸いたくならないそうだ。

喫煙という習慣にも色々あるものだと心から思う。

チャンピックスなしでもやって行けそうだ。

20130125

『目白の青く暗き春』〜キッチン樅

他人のBlogのタイトルをそのまま貰う。ここから描き始めよう。

その人の名を虚空に呼びかけたい。


瓜南直子さん。


絵描きだった。
素敵な絵を沢山残して下さった。
そして、
素敵な随筆もまた沢山残して下さった方だった。


よく読むBlogにタイトルのものがある。

目白の青く暗き春(上)
目白の青く暗き春(中)
目白の青く暗き春(下)

素晴らしい随筆になっていると思う。


私はこの随筆に全面的に共感する。

全く同じ時代を、全く同じ地域で過ごしていた。今ではひとつの奇蹟だった気がする。

同じ空気を吸って生きていたのだ。

暗きとあるが、どこにも暗さは見当たらない。けれど、そのように表現しなければならないような気になる。させられる。だから青く暗き春なのだと思う。


人生の半分以上を東京で過ごした。
だから東京には思い入れがある。
また、「あそこ」で暮らしたいとも思っている。

だが、「あそこ」の中のどこで?


私には初めての東京を経験させてくれた目白。
それも椎名町近辺しか、思いつかないのだ。


それだけ具体的に住みたい場所があるのならそこに行けば良い。
そうも思う。

そう思う時、
欠けてはならないものが欠けている事に思い当たるのだ。


そう、
椎名町にはもう
キッチン樅がないのだ。

画竜点睛を欠くと言う言葉がある。
それをキッチン樅なき東京に感じてしまうのだ。

そう、
東京にはもう
キッチン樅がないのだ。

キッチン樅が無いのなら、
東京に住まなくても良い。
そうとすら思えてくる。


10代の最後から20代。
私の青く暗き春の時代。
兎にも角にも、私は先ず飢えていた。
瓜南さん程繊細な味覚も無く、
究極とも言える赤貧の中にいた私は、
椎名町駅近くにあった洋食屋、
キッチン樅に入り浸った。

途方も無く安くて、ボリューム満点。そして何より旨い!
キッチン樅にはこの3拍子が完璧に揃っていた。

私の肉体の殆ど、
尤も頻繁に通った時代は疑いも無く肉体の細胞の全ては、
キッチン樅によって造られていた筈だ。



初期はモミライスという
ケチャップライスにとんかつの卵とじが乗せられ、
その上にブラウンソースが掛かった
洋食屋風カツ丼のようなものばかり食べていた。

今だっら、どうだろう、完食出来るだろうか?
その位のボリュームがあった。
洋食皿全面に山盛りになったカツ丼!
それを想像して頂きたい。

当時は1杯では足りていなかった。
凄まじい食欲だった。

後半になると好みも変わり、
少しは栄養の事も考え始めたのだろう、
白身魚のフライにタルタルソースが掛かったもの
+ハンバーグ
+カレーライス+スパゲッティナポリタン
というセット、
モミランチに集中した。

キッチン樅で最後に食べたのもモミランチだった。


私が食べ始めた頃はモミライスもモミランチもサービス価格で
350円ほどだったのではないだろうか?


いくら'70年代とは言え、
家賃月8000円(!)の格安下宿「富士アパート」と
キッチン樅なしでは、
私の東京暮らしは成立しなかった。



瓜南さんのBlogを読み、
久し振りに椎名町を、
そしてキッチン樅を思い出した。


誰か話題にしていないか?
「椎名町 キッチン樅」で検索してみた。

で、
驚いた。

モミランチを復元した方がいらっしゃったのだ!


伝説のキッチンモミの「モミランチ」の醍醐味を家族に味わって頂こう!


これだ!
これが「伝説」のモミランチだ!!

これにサービスのスープと味噌汁が付いた。
このスープがまた絶品だったのだ!
お新香も付いたのだが、
私は漬け物が食べられないのでいつも残していた。
それを気遣って下さったらしく、
終いにはお新香の代わりにポテトサラダを付けて下さった。

何度かそのポテトサラダの復元を試みたのだが、
マヨネーズの替わりにドレッシングを使っているらしい事は分かったが、
何を使っているのかの特定が遂に出来ず、
復元は失敗に終わっている。
ポテトサラダひとつとっても復元は難しい。
そんな絶品の店だったのだ。


良く復元されたものだと感心する。
まさにこれだ!!
余程の料理の腕の持ち主と拝見する。


驚いたのはこの画像だけでは無かった。
コメント欄を読み進めると、
キッチン樅の息子さんからの書き込みがあるではないか!


キッチン樅は復活に向かって動いている!

これはとても嬉しい出来事だった。
東京に、画竜点睛が入る!

更に!
>現在 中国山東省煙台でモミライス・ランチは復活しています。
とのことだった。



例えどの様な職業でも良い。
それが誠実なもので、良い仕事をしたものであれば、
それは必ず残るものだ。
そのことを
このクッキーパパのBlogは教えて下さった様に思える。



しかし…、
大切な人も、大切な洋食屋もない。
それが時代というものの宿命とは言え、
やはり、…
…やるせない。

20130121

チャンピックスを卒業する

完全断煙を始めてから11週が経った。夕食後、チャンピックスを服用した。早いものだ。これが最後のチャンピックスになる。

最後の煙草より、最後のチャンピックスの方が遙かに感慨深いものがある。

10月30日に検索から5分でバスに飛び乗り、宮沢医院へ行き、今回の断煙は始まった。

あれから12週。まめにチャンピックスを服用して「禁煙手帳」を付け続けた。

この12週は、私の人生の中でも特筆すべき12週となるだろう。

不安は大きかった。

ためしてガッテン!』では、チャンピックスは簡単に煙草を止める事が出来るが、調査してみると止めた人のうち半数近くが1年後に喫煙を再開していると告げている。
何よりも、知り合いでチャンピックスによる断煙を試みた何人かが全て、実際に断煙に失敗しているという事実が怖かった。

その為、断煙したにも拘わらず煙草関係の本を読み漁り、あえて煙草という存在に向き合う事もしてきた。

だが、今、実は煙草の事を余り考えていない。自然にそうなった。

吸わなければ吸わないで、煙草の事を考えざるを得なかった。それはしつこい感覚で、時に訪れる喫煙衝動と共に、今後何十年も付きまとい続けるかも知れない予感があった。

だがその時期は過ぎたのかも知れない。

物心共に煙草なしで過ごす事が出来る日がやって来たのでは無いだろうか?…まだ早いか?

いずれにせよ明日からはチャンピックスなしで過ごさなければならない。その意味で、真の断煙の始まりは明日からだろうとも覚悟している。だが、それは不安では無い。妙に自信がある。何しろ、遠い場所まで煙草を買いに出掛けない限り、断煙は実現出来るからだ。

むしろ、チャンピックスなしで始まる明日からの日常が楽しみでもある。

20130117

Kindleがやって来た!

ぼさぼさの、と言うより逆立っている寝癖頭で玄関のドアを開けた。
昨日の夕方の事だ。

チャイムが鳴ったからだ。Amazonから、もう発送のメールは受け取っていた。2日経っている。遂にKindleが来たのか?!

玄関から周りを見回す。宅配便は来ていない。空耳だったか?とドアを閉めようとしたら蔭から声があった。

「こちらでしたか。」

男がやけに嬉しげな笑みを浮かべて立っていた。

私に用事があった訳ではない。女房殿が車を買おうとしている。その見積もりを持ってやって来たのだ。

しまった!この頭では支払い能力が無いと思われたのでは無いか?(いや、実際に私個人には新車の支払い能力は無いが…)

もう遅い。
女房殿からお小言を貰う事になるだろう。

用件を済ませてドアを閉めた。

部屋が寒い。ファンヒータの設定温度を上げよう。

と、またチャイムが鳴った。

来たのである。

Kindleである。

革製のカヴァーと充電器を付けた。

文庫本を一回り大きくした程度の大きさで、やや厚い本と同じくらいの重さ。予想していたより軽くなかった。残念だ。だが、既に私のアカウントでAmazonには登録されていた。

すぐにでもKindleストアで本を買えるのだ!

ぐ、と堪え、しかし堪えきれなくなった。

無料の高神覚昇著『般若心経講義』と1ドルのGene Sharp著『From Dictatorship to Democracy』(これも紙版を購入すれば1,000円以上するのだ)を購入し、読んだ。

辞書などはデフォルトで使えるようになっており、その参照はスムースに行える。書き込みも思いの外簡単に出来た。


iPadと微妙に使用感がダブる。軽さがさほどでもなかったので、そのダブり感が気になった。iPadはまた、iPhoneとのダブり感がある。いろいろと用途が重複する。

しかしKindleで読んだものはそのままiPadやiPhoneで開ける。そのままと言うのはKindleで読んだ続きをiPadで読んで行けると言う意味だ。ウィスパーシンクロという機能らしい。誤ってKindleを忘れてきても、持っているiPadなどからシームレスに読書を続ける事が出来るという訳だ。

革製のカヴァーはスイッチにもなっていて、閉じるとスリープ状態になる。もはやこの程度の便利さには驚かなくなった自分が怖い。本を開いて、読んだ場所までめくって探しという作業が全くなくなって、只Kindleを開けば続きを読んで行けるようになったと言うのに!


これに先立ってKindle使用説明本を購入しておいたのだが、カラーである上にサイズが小さすぎてKindleでは読めなかった。皮肉なものだ。

読書の為機械が必要となった事については微妙に複雑な感情を持つが、紙からの離陸はいつか必要な事だったのだろう。後はもう少し日本語の本がKindle版で出て欲しいところだ。色々含めて総額1万円ちょいの値段は手頃と言えるのでは無いだろうか?

本の増加にはこれで少しは歯止めが掛かるだろうか?

仕様なのか故障なのか微妙なところだが、下辺のライトが少し暗い。これが気になった。

20130106

断煙2ヶ月─改めて煙草に向き合う

今迄何度も断煙に失敗してきた。だが、不思議なもので、今回は「最後の煙草」が実際に「最後」になることを確信していた。根拠は殆どなかった。だが、それが「分かった」のだ。この辺りの心理は説明が難しい。
それらを克明に描いたエッセイがあった。

この本『禁煙の愉しみ』に出会った時、既に断煙してしまっていたことを、私は少し後悔した。煙草を止める前だったら、著者と体験を共有出来ただろう。しかし、まだ遅くない。断煙は恐らく一生続くのだ。
著者は禁煙という言葉を使う。
禁煙とはそれ自体がワクワクする愉快な出来事であると述べている。
煙草を止めると言う行為が、自由の一形態だという境地には至っていたが、禁煙そのものを愉しむという、境地には辿り着けていなかった。かなり悔しい。

煙草を止めようと苦心惨憺して、失敗を繰り返していると(この態度がいかんのだ、失敗ではない、禁煙の稽古をしているのだ)、すぐに消えてしまいそうな、そして実際にすぐに消えてしまう。淡い、独特の「境地」に何度か辿り着く。その様子がこのエッセイには分かり易く描かれている。良く形にしたものだ。多分筆者もその「境地」の描写にはかなり苦労したことだろう。
そして、何度かの「稽古」を経て「本番」に至る時、禁煙者はそれをはっきりと自覚しているのだ。何故かは分からない。

これ程までに前向きに断煙に立ち向かった例は余りないだろう。多分、筆者は禁煙という個人的な行為に個人を超えた人類普遍の意味を見いだしたのだ。それ故に禁煙の本番に至る経過を逐一報告したくなったのだろう。その心理は手に取るようによく分かる。その意味で貴重な記録になっていると思う。このエッセイを読んで禁煙をしてみたくなる人が出て来ても何の不思議もない。勝れたエッセイだと思う。


断煙に踏み切ってから2ヶ月が過ぎた。煙草という厄介であり、不思議でもある存在に、もう一度向き合ってみようと思うに至った。

そもそも、煙草の歴史はコロンブスのアメリカ大陸との出会いから始まっている。それ程古い歴史がある訳ではない。

タバコが語る世界史』は煙草を通して見えてくる世界史が語られている。

リブレットなのでさほどボリュームはない。けれど内容の濃い本だ。

煙草、それも極めて合理的にニコチンを摂取出来る紙巻き煙草がいかに浅い歴史しか持っていないかを、この本で知る事ができた。それが世界中に蔓延していることを思えば、現代という時代が、如何に特殊な時代であるかを知ることが出来る。
所謂嫌煙権運動が盛んになって以来、煙草に対する風当たりは確かに異常な程激しくなったが、それ以前に煙草の普及自体が異常な出来事だったのだ。

現代という時代を観る時、Nicotiana Tabacumという草に翻弄されている時代であるという認識と切り口は必要な視点とも言える。

喫煙と禁煙の健康経済学』は医者以外が書いた最も良質な煙草本のひとつだろう(医者が書いた煙草本が良質であると言っているのではない)。

兎に角採り上げられているデータが豊富だ。主テーマである煙草の生み出す嗜癖という特異な性質の経済学的な分析以外に、如何に断煙の失敗率が多いかや増税の健康促進効果は弱いことをこの本から知る事が出来る。

断煙を挫折しても、自分を責めるには早すぎる。

今日採り上げた本で、暫くは煙草や禁煙という行為に向き合ってみようと思っている。その結果は、またひとつひとつ採り上げて紹介するかも知れない。

20121217

始まりの終わりでもなく、終わりの始まりでもなく

自民党が大勝した。
こう書くのも客観性を欠くだろう。数字を詳しく見てみると、民主党が大敗したと言う現象が起きたのだと分かる。

だが、その結果、増税・憲法改悪・TPP参加・原発推進・国防軍…etcの自民党が安定議席を確保すると言う現象に繋がった事は否定出来ない事実だ。

率直に怒るべきなのかも知れない。 だが、誰に向かって怒ったら良いのか分からない。日本国民に対してなのか?ならばその怒りは自分自身にも向かう。私は全く努力しなかったのか?そうではあるまい。

おおかた予想出来た範囲で物事が進んでいる。それが素直に怒れないもうひとつの理由だ。怒るのにも体力・気力が必要だ。その体力・気力共に、マスコミの事前の予想に接して、そう、馴らされて、削がれてしまっているのだ。悪い意味で、心の準備が出来てしまっていた。

憲法改悪を唱える党が議席の2/3を確保してしまった。これも特筆しておくべき事だろう。

この事態を目の前にして、選挙前心中穏やかにはなれなかった。

だが、現実にその事実を迎えてしまった今になって、却って落ち着いてしまった自分が居る事に驚いている。

恐ろしい状況が現実になってしまったと言う事実は覆せまい。しかし、それと同時に、分厚い日常が営々と営まれている事もまた事実なのだ。

恐るべき現実。

確かなのは、ここ(現実)から、一歩一歩、また始めて行かねばならないという事だ。今日は落ち込んで、明日からまた脱原発の運動を始めて行こう。
2年前に比べたら、原発の闇が暴かれ、話題にされている。これは前進ではないか。

そして、改めて、平和と民主主義と言うものは、不断の努力によって獲得し、護られなければならない存在なのだという事が、ひしひしと感じられてきている。

護らねば!

政治家や財界人にとっては、戦争という手段が禁じられているのは不自由な事なのだろう。強力な交渉手段がひとつ使えないのだから。それは分かる。けれど私たちにとっては、戦争は起こされてはならない事なのだ。

その愚かさは67年前に十分に悟ったではないか。

選挙が終わった。これは始まりでもなければ終わりでもない。始まりの終わりでもなければ、終わりの始まりでもない。分厚く、融通の利かない日常が目の前に存在している。目の前に存在しているのだが、私にはそれがどこにあるのか分からずに、暫し戸惑っている。

『星の王子さま』とそれに関する本を数冊買った。戦争について、考えてみるつもりだ。

20121206

断煙1ヶ月突破

もはや遠い過去の話に思える。煙草を吸っていたことがだ。

まだチャンピックスを服用しているが、最後の煙草を吸って断煙状態に入ってから1ヶ月が過ぎた。身体はもう煙草を欲しがっていない。ただ、煙草の快楽の記憶が強烈に残っており、その記憶が煙草を吸ってみたいという気分を引き起こすことはある。まだまだ油断は出来ない。だが、要は煙草を入手しなければ良いのであって、多分薬を服用し終わっても断煙は続いて行くだろうという自信は付いてきた。

取り立てて煙草を吸わなくなって良かった事というのが感じられないのは困ったことだ。折角止めたのだが、沢山起こると言われていた「良い事」がなかなか起こらない。煙草を止めた甲斐が無いようにも思えてしまう。

仕方が無いので探してみる。

そうするとそれでも「良い事」結構ある事が分かってくる。

朝の目覚めは爽快になった。
煙草を吸っていた頃は朝起きるとすぐに咽のイガイガが気になって、煙草を吸わざるを得なくなったものだ。そのイガイガがない。何十年ぶりかで「爽やかな朝」を取り戻す事が出来た。

四六時中咳をして痰と闘っていた。それが無くなった。痰が絡まなくなった。これはかなり楽だ。声も楽に出すことが出来るようになってきた。


禁煙ノートというiPhoneアプリがあるのだが、それによるとこの1ヶ月で吸うはずだった煙草の本数は620本だと言う。恐ろしい数だ。何十年にも渡って、私は恐ろしい数の煙草を吸ってきたと言う訳だ。身体を壊さなかったのは幸運だったとしか言いようが無い。

このアプリによると、断煙の第1ステージは終わり、第2ステージに入っているらしい。

どの様な違いがあるか、最初の内は分からなかったが、次第に分かってきた。

第1ステージというのは、まだ煙草を身体が欲しがっていた段階であって、ひと月くらい経つと身体が欲しがらなくなる。けれどまだ吸いたいという気分は残っている。煙草が懐かしいのだ。その煙草の快楽の記憶を、未来への快楽や達成感に置き換えて行く段階が第2ステージなのではないだろうか?

この「気付き」は、喫煙を復活させない為に、重要な気付きだとわたしは思う。

煙草を止めてみてじわじわと分かってきた事は、煙草を止めると言うことは自由を手に入れる事だという真理だ。
出掛ける時など、煙草の存在を常に意識していた。煙草が無くなりそうになると途端に不安になり、何としても煙草とそれを吸える場所を確認する事が常になっていた。一体何度「まだ吸える」煙草を探す為に灰皿やゴミ箱を漁った事だろう。

それらの全てから、止めるや否や、一斉に開放されるのだ。これを自由のひとつの形態と理解出来なくて、何が自由だと言うのだろうか?

これまでチャンピックスを使って断煙を始めた友人がFBやTwitterで何人か居た。全て失敗に終わってしまっている。残念なことだと思う。