20200526

芍薬

一昨日わが家に芍薬がやって来た。
届いた時には、全ての花が蕾だったのだが、その後、見ている間にあれよあれよという間に開き始め、今では半数以上の花が咲いている。
その成長の速さには、舌を巻くばかりだ。

この写真は10:00頃撮ったものだが、12:35現在、既にこれよりもっと多くの花が咲いている。

芍薬や牡丹の花の咲くスピードが速いとは、話しには聞いていたが、これ程速いとは思っても見なかった。

今、この芍薬は、玄関から見える、部屋のスペースに飾ってあるが、そこだけ夏が来たように、華やかだ。

芍薬は確かにわが家に夏を運んで来てくれた。

20200518

震災画報

7日間ブックカバーチャレンジ番外3

規定の7日間+番外3日間の10日間に渡って、書影をBlog、Twitter、Facebook、Instagramで紹介して来た。

それによって人生が変えられた本。唯一無二である本を基準に取り上げて来た。

だが、このままではいつ迄経っても切りがない。そろそろケリをつける事にしよう。


神田の古本屋街で和綴じの本を購入することに憧れていた。その日のために、崩し字の読み方の勉強もしていたのだ。

しかし、それを実行したのはたった一回きり。故にこの本宮武外骨『震災画報 全』は、私が持っている唯一の和綴じの本になる。
手に入れた当時は古書でなければこれを読む事は出来なかった筈だが、2013年にちくま学術文庫から出版された時は、さすがにがっくり来た。
しかし挿画の大きさも古書の方が大きく、肌合いも違う。手元に置いておく価値は、充分にあるだろうと判断し、未だ売らずに残っている。

日本は、様々な震災を経験してきたが、関東大震災は未だに私の中で、大きなテーマとして位置づけられている。

地震としては、東京では、それ程大きなものではなかった。地震や津波の被害はむしろ熱海や横浜で 大きかった。
しかし、この震災を特徴付けるのは、地震後に発生した大火だ。

そして官民双方を巻き込んだ、流言蜚語の拡散。自警団による朝鮮人・中国人の虐殺。社会主義者の弾圧などが続いた。

それら全てを含んだ意味で、災害としての関東大震災はある。

震災直後から始められ、現在に至る様々な報道、研究により、関東大震災の全貌は、かなりの精度で明らかにされている。
しかし、その教訓が、それ以後の災害で、充分生かされたかと言うと、甚だ心許ない。

典型としての天災であり人災であった関東大震災を知る作業は、これからも続けて行くつもりだ。

それをしてゆく上で、この本は、いつ迄も色褪せない貴重な史料となってくれるだろう。

20200517

ダイナソー・ブルース

大して期待せずに図書館から借りてきた。

どうせ巨大隕石衝突が語られ、それによって引き起こされた暗く、長い冬が恐竜たちを飢餓に晒し、絶滅に追い込んだとされる、「例の理論」が紹介されるのだろうと。

しかしこの本『ダイナソー・ブルース─恐竜絶滅の謎と科学者たちの戦い』に描かれていたのは、想像を遙かに超える物語だった。

恐竜絶滅に関しては、無関心である事が出来ず、それなりに調べて来た。なので、もう重要な事に関しては、新たに知る事は残っていないと思っていたのだ。

甘かった。この本に書かれていた事は、知らない事だらけだった。

どんな理論でも、新たに登場してきた時は、大抵多くの懐疑の念に晒される。
恐竜絶滅に関する巨大隕石衝突説もまた、多くの反対意見に晒された。

しかし、丹念な研究の積み重ねにより、徐々に賛同者を獲得して来た。

だが、この理論が主流になってゆくのは、思っていたより遙かに紆余曲折を経たものだったのだ。

幾ら主流になった理論でも、強硬な反対者は尽きない。

学者たちも人間である。

学会を舞台に繰り広げられる戦いは、双方の意地と威信を賭けた、激しいものだった。

反対者たちの研究もまた、一理も二理もあるものだった。その主張は、それなりに説得力を持ち、主流になった理論を窮地に追い込む事すらあったのだ。

また、反対者の主張により、理論がより詳細な強固なものに鍛えられた面もあった。

この本は、その戦いの始終を、丹念に調べ上げ、スリリングでエキサイティングな、見事な人間ドラマに仕上げている。

著者尾上哲治さんは自らも層序学、古生物学の学者として研究生活を営んでいる。当然、自分の主張も持っている。

彼は、この本で天体衝突による絶滅の新しい理論を提示している。

これは思い切った決断だっただろう。

確かにこの本は、本格的サイエンス・ノンフィクションだ。
面白かった。

チチュルブ天体衝突と殆ど同時に、デカン火山活動で膨大な洪水玄武岩が噴出された事。
チチュルブ・クレーターがアラン・ヒルデブランドによって「再発見」される遙か以前に、既に発見されていた事などは、この本で初めて知った。

シニョール・リップス効果などという用語は、今迄聞いた事もなかった。

堀越孝一さん

7日間ブックカバーチャレンジ番外2

多分ホイジンガの『中世の秋』に始まるのだろう。
私にはヨーロッパ中世の歴史趣味がある。

折に触れて、出逢ったヨーロッパ中世に関する本は、数限りなくある。

その中から1冊を選ぶとすると『中世の秋』も訳した堀越孝一さんの『パリの住人の日記』という事になる。
15世紀フランスのパリに住んでいた一市民が残した日記を、丁寧に読み解き、翻訳し、注釈を付けた作品だ。

文献に対する態度が実に良い。

フランス語は少し囓ったが、発音、文法共にひどく難しい。増して中世のフランスの古語となると、手強すぎてとても手を出す気にもなれない。
堀越孝一さんはそれを自在に読み解き、解説する。

読みたいように読むのでは駄目だと堀越孝一さんは言う。
読解とは、書かれたものを書かれたままに受け取ることを言う。そこに読者の主観を交えてはならないという教えだろう。

この日記に取り組んだ、本国フランスの研究者の読み方をも批判している。
学問に対する姿勢はあくまでも厳しい。
しかし確実に愉しんでいる。
この『パリの住人の日記』を読むのが愉しくて仕方ないのだろう。それが翻訳を読む私たちにも伝わってくる。
私たちも思わず愉しくなる。

碩学とは、堀越孝一さんの様な方を指す言葉なのだろう。

碩学の作業に触れる事は、上質なワインを味わう様な快感がある。

20200516

三中信宏さん

7日間ブックカバーチャレンジ番外1

やはりはみ出した。

前任バトン走者の三中信宏さんへのオマージュを込めてこの本『生物系統学』を紹介したい。

知る人ぞ知る名著である。

地震研時代、キャンパス内にある東京大学出版会迄行き『最新版日本被害地震総覧』と共に購入した。題名と表紙を見て、即決した。
最初は軽い気持ちで読み始めたのだが、それでは全く歯がたたない事をすぐに理解させられた。
系統学が体系的に語られているのだが、その守備範囲は広い。

谷川俊太郎さんの詩から始まり、歴史についての考察を経て、系統が語られる。

それまで何気なく見ていた系統樹が、最節約法などを駆使して作られている数学的なものである事を、初めて理解した。

その構成は帯に書かれている簡略化された目次を示すのが一番だろう。

【主要目次】
第1章ーなぜ系統を復元するのか
第2章ー系統とは何か
第3章ー分岐学─その起源と発展
第4章ー分岐学に基づく系統推定─最節約原理をどのように用いるか
第5章ー系統が語る言葉─分子から形態へ、遺伝子から生物地理へ

独特の語り口で書かれたこの本を、そのコード迄理解するのは、かなり困難な作業だ。

この本とも格闘したと言って良い。

だがとても面白く、熱中して、夢中になって読んだ。

そしてそれは三中信宏さんの幾多の本との格闘の始まりを告げるものとなった。

類書を見ない。

20200515

ヘルマン・ヘッセ

7日間ブックカバーチャレンジ7日目。

昆虫少年だった私を強引なまでに文学の方に向かわせた人物、それがヘルマン・ヘッセだった。小学6年の時、国語の教科書で『少年の日の思い出』を読み、すっかりやられた。
そして中学生になり、彼の詩を読んだ。衝撃的だった。そこに私の心情が書かれていたからだ。高橋健二さんの訳だったと思う。一行一行全てにいちいち共感し、感動した。この詩人は私の為に詩を書いていると確信した。厨二病だったのだ。

日の輝きと暴風雨とは
同じ空の違った表情に過ぎない。

という詩句に悶え、

魂は、曲がりくねった小みちを行く。

と読んでは転げ回るといった有様で、今思い返しても恥ずかしい。

"Stufen(階段)"は、ヘルマン・ヘッセの最後の詩集。
これだけはドイツ語で読みたいと思い、ドイツのamazon.deで購入した。船便で送られて来たので、注文してから到着する迄半年掛かった。手にした時はさすがに感動した。
私がドイツ語の本で、最初から最後まで読み通した本は、この詩集しかない。
不得意なドイツ語でも、意外と「味わう」事ができるのに驚いた。

このブログ『夏の扉へ』の表題の下に引用してあるのは、この詩集の表題作から採ったものだ。

私たちは空間を次々と朗らかに徒渉しなければならない。

といった意味だ。

ヘルマン・ヘッセのドイツ語の詩集は、他にレクラム文庫で持っているが、そちらはこれと言った詩を拾い読みした程度で、読み通してはいない。

そんな訳でヘルマン・ヘッセの一冊となると、この"Stefen"をどうしても採り上げたくなる。

私には全作品を読破した人物が3人いるが、ヘルマン・ヘッセはそのうちのひとりだ。

20200514

石森延男さん

7日間ブックカバーチャレンジ6日目。

その本は、私がその存在に気付く前から、私の自宅にあった。

少年の頃私は休みの日には、河原で石を拾い集め、捕虫網を持って駆け回る、根からの理科少年だった。そんな私にも思春期が訪れる。文学に目覚めたのだ。そうさせた人物はふたりいる。ひとりはヘルマン・ヘッセ。今日はもうひとりの石森延男さんを採り上げる。

石森延男と言えば『コタンの口笛』なのだろうが、それ以前に読んだ『バンのみやげ話』の印象が、私には思い出深い。
そうは言っても『コタンの口笛』も何度となく読んだ。「あらしの歌」「光の歌」と2巻に分かれた薄からぬあの本を、主人公の運命に我が事のように翻弄されながらも、読み終えるのが勿体なくて、本の先の方を押さえながら読んでいた事を覚えている。

『コタンの口笛』でそれなのだから『バンのみやげ話』は一体何度読んだのだろうか?
予防注射を打った腕をさすりながら空港を急ぐシーンに始まり、バンが連れて行ってくれるヨーロッパやアラブの国々に思いを馳せながら、私は夢中になってこの本を読んだ。

今は文庫本しか持っていないが、出来れば挿絵のある単行本で、この本を読みたい。鉛筆で描かれたそれらの挿絵は、石森延男さんの文章と見事なハーモニーを奏で、それを読む私の想像力を、縦横無尽に掻き立ててくれた。

見た事もない国々の、聞いたこともない話を石森延男さんは優しく、私に語りかけてくれた。私はこれも生まれる前から自宅にあった百科事典で、それらの国々を調べ、更に空想の翼を拡げた。

私が初めて主体的にする、学ぶという行為だった。

それは、私が人生で初めて持った憧れという感情だったのかも知れない。

20200513

全体主義の起原

7日間ブックカバーチャレンジ5日目。
押しも押されもせぬ大著だ。そして、文章は難解で、多くの注釈が細かに付けられている。
その注釈も律儀に追跡しながらこの本と格闘した。7ヶ月掛かった。
それだけに思い入れの深い一冊になった。
この本を読む前に、三嶋寛さんから、ハンナ・アーレントを読むなら外せない一冊として、『人間の条件』を奨められた。それとも格闘した。その読書体験が、この本を読む時生きた。
 『人間の条件』では複数性という概念が強調されている。『全体主義の起原』では、「見捨てられていること」(英語版の「独りぼっちであること「ロウンリネス」)とされ、その概念の重要性が改めて理解出来た。全体主義は複数性を徹底的に破壊するものである事が論じられているのだと思う。
他にも『全体主義の起原』では、まだ未整理だった用語を、『人間の条件』を援用することによって、きちんとした形で理解することが出来、大いに助けられた。
逆に言えば、『人間の条件』を読んでいたときに曖昧だった用語が、『全体主義の起原』を読んで、ようやくはっきり見えてきた事も多かったように思う。

2巻の終わりから3巻に掛けてのアーレントの記述の迫力は満点で、肌が泡立つような思いで読んだ。その時の感覚は未だはっきりと思い出すことが出来る。

ハンナ・アーレントの名を、一躍世界に知らしめた1冊。ここから『精神の生活上・下』に至る、全ての作品を対象にしたい気分もある。

20200512

プリズン・サークル

9日に再開したばかりの長野相生座・ロキシーに行ってみた。
プレミアム会員券を更新しなければならなかったし、何よりも映画館で映画を観たかったのだ。
新型コロナウィルス感染防止のために、マスクは必須。入口に消毒液が置かれ、座席も2つ置きに坐るように張り紙が貼られていた。

選んだのは取材許可が下りる迄に6年を費やし、2年間掛けて撮影された、坂上香監督のドキュメンタリー『プリズン・サークル』。日本の刑務所にカメラが入ったのは、この映画が初めての事だという。

島根あさひ社会復帰センターは、2008年に開設された、官民協働型の先端的な男子刑務所である。指導や生活管理は公務員である刑務官が行うが、警備や清掃、職業訓練などの多くを民間が担っている。
ドアの施錠や収容棟への食事搬送は自動化され、ICタグやCCTVカメラで監視された受刑者は、所内の独歩が許されている。

しかし、この刑務所の本当の新しさは「TC(Therapeutic Community=回復共同体)という教育プログラムを進める日本で唯一の刑務所であるという点にある。
「TCユニット」と名付けられた教育プログラムは「サークル」と呼ばれる円座での対話によって、受刑者たちが犯罪の原因を探り、問題の対処法を身に付けることを目指す。
運営するのは心理や福祉などの専門的な知識を持つ「支援員」と呼ばれる民間職員だ。

参加出来るのは、希望者の中から条件を満たした40名前後の者のみ。彼らは半年から2年程度、このユニットに在籍し、寝食や作業を共にしながら、週12時間程度のプログラムを受ける。
TCは1クールが3ヶ月。クール毎に新規生が加わる。

映画はその参加者の中から拓也(当然仮名。以後も同じ)、真人、翔、健太郎、それに出所者たちにスポットを当て、TCの実際が紹介されてゆく構成を取っている。

そこで受刑者たちは幼少年期を振り返り、加害者と被害者双方の立場に立って犯罪を振り返り、時にロールプレイを試みながら、自分と自分が成した事を見つめ直す。

映画の中で、回想シーンなどに若見ありさによる、砂絵のアニメーションが効果的に使われている。
モノトーンで描かれて行く、それらのアニメーションは、受刑者たちの置かれていた幼少年期を、具体的に復元し、彼らが実は私たちとそれ程違いがない者たちである事を伝える。
最期に「生きたい」という願いに到達した受刑者が、創作した物語を描く時、アニメーションはついに色彩を持つ。
それは処罰から回復へと、今、日本の刑務所が変わろうとしているその事を、如実に象徴していたように、私には感じられた。

まだ数が少なく、一概には比較出来ないが、TCを受けた受刑者たちの再犯率の低さは特に指摘しておく必要があるだろう。

ジェンダー・トラブル

7日間ブックカバーチャレンジ4日目。

奥付を見ると、この本が出版されたのは1999年4月1日になっている。私は既にフェミニズムの洗礼を受けた後ということになる。
けれど、私の中ではこの本によって、フェミニズムと強烈な出会いをしたという感覚がある。
フェミニズムは常に、男たちに有罪を宣告してきた。それに対して誠実に向き合うことなしに、男たちは自由に生きることは出来ないと、私は考えている。
男の有罪性からの解放。それが私にとって、人生のひとつのテーマなのだ。
この本がなければ今の私はあり得ない。

しばしばセックスは自然の性、ジェンダーは社会的な性と説明される事が多い。だがジュディス・バトラーはセックスもまた、社会的に規定されていると論じる。女と男の弁別が、身体の自然に根ざすとする本質論的前提を、根源的に覆しているのだ。

そしてセックスもジェンダーも、男にとって都合がいいように、造られている。

女も男も、人生の最初から、異なったスタートラインに立たされているのだ。

そうした現実の中では、男たちは女たちと、全うな関係を取り結ぶことは、事実上不可能だ。
私は、そうした現実を、男にとっても不幸なものと判断する。

シスジェンダーの男。それは疑いもなく、マジョリティとしてのあり方だろう。だが、私はその私のあり方が、それ程快適なものとは思えないのだ。

それに気付かせてくれたのが、この本『ジェンダー・トラブル─フェミニズムとアイデンティティの撹乱』だった。

読み易い本ではない。
文章は難解で、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、シモーヌ・ド・ボーヴォワールといった思想家が縦横に引用され、駆使されている。
だが、この本と格闘してみる価値は、充分にある。

最近、『ジェンダー・トラブル』を解説した、良く出来た動画が公開された。
これを見れば、この本を読む必要はないとは言わないが、かなり分かり易くなることは確かだと思う。

良い世の中になった。

時々、この本と格闘していた時の事を思い出す。
かなり長い時間を必要とした。
だが、その時、少しずつ自分自身が解放されて行く快感を、私は確かに感じていた。

20200511

飯島耕一さん

7日間ブックカバーチャレンジ3日目。
今でこそ、その習慣も潰えてしまったが、息を吸うように詩を読み、息を吐くように詩を書いていた時期があった。
その頃最も影響を受けたのが、飯島耕一さんだった。
彼の『シュルレアリスムの彼方へ』を読んで、それまで只単に難解なだけだった現代詩が急に分かるようになってしまってからの習慣だ。
この『ゴヤのファーストネームは』を読んで、隅から隅まで理解出来ると感じた。
ここから『バルセロナ』『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』『[next]』と読み継ぎ、飯島耕一さんの詩は、常に私の傍らにあった。
それどころかすっかり影響を受けてしまい、書く詩が飯島耕一さんの様なものに変わってしまいもした。
正直に告白しよう。私は飯島耕一さんのエピゴーネンだった。

今、飯島耕一さんの詩を読むと、ほろ苦い思いが伴う。

私が詩を書かなくなったのは、双極性障害の投薬を始めてからだった。
それ迄、詩を書かないと苦しくて仕方なかったのだが、薬が効いたのか、詩がなくても息が出来るようになったのだ。

私の詩は、「症状」のひとつの現れだったのかも知れない。

しかし、大学時代山梨の高校生に、私の詩は愛読されたこともあったのだ。

今住んでいる団地に引っ越すとき、蔵書の2/3を売り、日記、自作詩集の類は全て捨てた。
私は私が作った詩を読むことが、もう2度と出来なくなった。
その事は、少し残念な気がする。

しかし、詩は、間違いなく私のひとつの時代を形成していた。
飯島耕一さんの『ゴヤのファーストネームは』は、その時代を象徴する、大切な本なのだ。

20200510

堆積学

#7日間ブックカバーチャレンジ2日目。

私は大学時代地質学というマイナーな学問を専攻していた。中でも更にマイナーな堆積学に夢中になった。

砂や礫、泥と言った堆積物がどの様に堆積するのかを探求することによって、過去の堆積物からそれがどの様な環境で堆積したのかを推定してゆく学問だ。謂わば過去の環境の復元。

だが、私が在籍していた大学には堆積学を体系的に教えてくれる授業もなく、殆ど独学で学ばなければならなかった。その時の私を支えてくれたのがこの本だった。
他にも参考にした本は多いが、この本ほど何度も読み返した本はない。
凄まじい情報量が体系的に詰まった本だ。

ちなみに私は外国語が苦手だ。出来れば日本語の教科書が欲しかった。だが当時、それは夢のまた夢。専門的な知識は洋書を読んで手に入れるしかなかった。

がむしゃらになって読んだ。

読んでは、その成果を確かめにフィールドに駆け出して行った。

私の堆積学の知識の殆どはこの本から得たものだ。それだけに思い出深い本になった。その意味で、この本は私を形作っている本だと言って良い。

今でも時々、この本に目を通す。その度に、真剣に学問に挑んでいた自分を思い出し、今の自分の姿を反省する。私は今のこの時を、真剣に生きているのかと。

異端で派手なニセ科学が幅を利かす現代だが、正統的な学問を正攻法で修めて行く事程、面白いことはないと、断言出来る。

娯楽の極まったものが学問だと思うのだ。

20200509

田淵行男さん

Facebookやtwitterで #7日間ブックカバーチャレンジ という催しが行われている。
ひたすら書影を上げてゆくものらしい。

三中信宏さんが受け取ったバトンを、やりたい者がやれば良いと落として行ってしまった。その趣旨に賛同する。私がそれを拾い上げ、繋げる事にした。なので私もバトンを誰にも渡さない。やりたい者がやればいい。

考えてみれば、こうしたことは1年中やっている。違うのは今読んでいる本ではなく、遠い過去に遡って、自分の読書遍歴を披露することにあるのだと思う。

第1日目は田淵行男さんの『ギフチョウ・ヒメギフチョウ』を採り上げる事にした。
500円もあれば単行本が買えた高校生当時、そして、その500円を捻出するのにも苦労していた時代、12,000円のこの本を手に入れるのは、清水の舞台から飛び降りる思いだった。思い切った買い物だった。ギフチョウとヒメギフチョウの生態を知る切っ掛けを作ってくれたのは、確実にこの本だ。ギフチョウとヒメギフチョウの幼虫がその食草、カンアオイやウスバサイシンと見事なシンクロを見せている事を知ったのもこの本からだった。

ギフチョウとヒメギフチョウはその成虫の姿も美しいが、とりわけ、蛹の彫刻のような美しさに感銘を受けた事を覚えている。

以後、折に触れて田淵行男さんからは多大な影響を受けた。

引っ越しの時に、多くの本を手放してきた。だが、この本だけは売らず、手元に置き続けた。大切な本なのだ。

#7日間ブックカバーチャレンジの初日を飾るにふさわしい本だと思う。

20200502

五月

5月になった。途端に30℃を超えた。

盛夏と違って、湿度がそれ程高くない。なので、室内にいる限り、余り暑さは感じない。

しかし、一旦外に出てみると、確かに凄く暑い。

新緑の季節を迎えている。部屋から見える木々も、大分緑が目立つようになって来た。

この鴨脚樹が芽吹いたのをブログに上げたのも、つい最近の事だ。
もう、緑の連なりになっている。

木々の緑は、将に爆発的に噴き出している。これが信州の春から初夏に掛けての特徴だ。

部屋の前に行ってみると、どなたが植えたのだろうか?キンギョソウが、花を付け始めている。
最初は小さな株だった。部屋のプランターに水を遣るときに、しばしばこのキンギョソウにも水を遣っている。

かなり大きくなった。

世話をしてると、段々、情が移ってくる。この株も、もはや大切な私たちの家族の一員だ。

調べてみると、キンギョソウはもっと花が大きくなるようだ。

楽しみだ。

公園に行く。つい最近開き始めた八重桜も見頃を迎えている。

見事なものだ。

どの木にも、しっかり花が付いている。

信州では、花も春、爆発的に咲く。

何しろ、つい最近迄、梅と桜が同時に花を付けていたのだ。

この八重桜の反対側に、藤棚が造られている。確か昨日まで、花は付いていなかった。それがこの陽気に応えるように、一気に花を付け始めた。

まだ花の房は短い。だが、花の数はなかなかに多い。

この棚には、紫の藤もあった筈なのだが、それはまだ、姿を見せていない。

時期がずれるのだろう。

この暑さは、どうやら全国的なものではなさそうだ。気象庁で調べてみると、今日の最高気温の欄に長野、福島と言った所がずらっと並んでいる。
  
部屋に戻ると、涼しさに安心する。だが、窓を開け放って、風を入れると、その風が生暖かい。窓際に立つだけでも、暑さを感じる。

暑さを感じて、フリースの上着を脱いだのは、つい昨日の事だ。2、3日前まで、ファンヒーターを必要としていた。それが、あれよあれよという間に、一気に初夏を迎えた。

暑くなると、マスクがとても鬱陶しく感じる。

この夏は、どんな夏になるのだろうか?そう遠くない未来に想いを馳せて、今日はこの季節はずれとも言える暑さを愉しみたいと思う。

この季節は、寒暖の差が激しい。
身体に気を付けて、激しく流れて行く時の流れに身を任せ、たゆたうことにしよう。

今日2日の最高気温決定稿。長野市は32.0℃を記録した。