中学校の隣のクラスの担任だった松岡という教師は、なぜか私をいたく気に入って下さって、あれこれ気を遣って、特別な指導もして下さったように思う。中学を卒業する時、その松岡先生も異動となり、今生の別れとなった。
新しい赴任先に出掛ける寸前、その松岡先生は、わざわざ私の家まで出向いて下さり、一冊の本を私に手渡した。それは米川正夫訳のドストエフスキー『罪と罰』だった。
「いや、持っているとは思うのだけれど、それでもこの本で読んでもらいたくて…」
松岡先生は首にタオルを巻いた、引っ越し用の姿で、そう仰って下さった。
正直に言おう。私は少し残念だった。『罪と罰』は世界文学全集の中の一冊に含まれており、その米川正夫訳の本は、やはり既に持っていたからだ。
しかしその時から『罪と罰』は、私にとって特別な本となった。
けれど恩知らずな私は、その本を気にはしていたものの、読む事は無かった。
長い間、私にとってドストエフスキーを読んだ事がない事は、深いコンプレックスとなっていた。『罪と罰』ばかりではなく、それこそ一冊もドストエフスキーの作品を読んだ事は無かったのだ。だが高校生の頃は、当然読んだ事がある振りをしていた。
どこぞからか知識だけは仕入れていて、あの大地へのキスが良いなどと一丁前に論じたりしていた。
昨年の夏、本棚を眺めていて気が付いた事があった。
今住んでいる団地に引っ越す前、私は本の大整理を敢行していた。図書館にある本を中心に、持っていた本の2/3を売り払った。
中には良い本が多く、読んでいないものもかなりあった。断腸の思いでブックオフに持っていっては、売った。かなりの額になった。
もとの1/3ほどになったとは言え、それでも残った本もかなりの冊数があった。
ふと、気が付いた。現在の私の本棚には、1冊もドストエフスキーがない!
そう言えば図書館にはドストエフスキー全集なるものがある。
夢中で本を売り払っているうちに、『罪と罰』を含め、あった筈の『白夜』も『地下室の手記』もその姿を消していた。
頭を殴られたような思いだった。
折からハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を読破していた。半年以上掛かったが、何とか読み切ったのだ。
大著と呼ばれる本もなんだかんだ言って、読めるではないかと調子に乗った。
暫く前から、光文社古典新訳文庫で亀山郁夫がドストエフスキーの新訳を出している事には気が付いていた。
調べてみると県立長野図書館に『カラマーゾフの兄弟』がある事が分かった。早速借りてみた。昨年の9月1日の事だ。
畏れていたドストエフスキーも、『全体主義の起原』に比べれば、遙かに読みやすい。加えて光文社古典新訳文庫には栞に登場人物が整理されていて、これが段違いに読書をしやすくしてくれていた。
「大審問官」まで1週間。全体は3週間ほどで読み切った。
感動した。
次に『悪霊』にチャレンジした。
市立長野図書館に光文社古典新訳文庫版がある筈だった。だが、行ってみると、それは分館の南部図書館にあり、すぐには借りられない事が分かった。仕方が無い。河出書房新社版の全集。米川正夫訳を借りてきた。
ところがこれが字が細かい。老眼鏡を掛けなければ読めないレベル。そして人生の転機ともなった日赤入院が重なる。
何とか字を追ってはいたが、日赤のベッドは薄暗く、読書には必ずしも適した環境ではなかった。
挫折。
退院して『悪霊』は光文社古典新訳文庫を買う事に決めた。
それが届くまでの間、少し時間が出来た。
県立長野図書館で『白痴』を借りていた。それを読む事にした。
今思うと、この頃から少しずつ躁状態が始まっていたのだと思う。
『白痴』は2週間で読破した。後半は物語が白熱し、夢中で読んだ。
躁状態のなせる業なのか、本当にそうなのか分からないが、段々と本が読め始めた実感を得たのもこの頃の事だ。
年末年始を『永遠の夫』で小休止し、正月からいよいよ光文社古典新訳文庫で『悪霊』に再チャレンジした。
今度は波に乗れた。
『悪霊』も2週間で読破。
凄まじい衝撃を感じた。
その後、『地下室の手記』、『白夜/おかしな人間の夢』、『死の家の記録』と読み継ぎ、2月に入っていよいよ、青春の忘れ物『罪と罰』を読み始めた。
これは正味5日間で読み切った。
異様とも言える読後感がその後ずっと続いた。
やはり『罪と罰』は特別な小説だった。
半年付き合ってみて、つくづく思う。やはりドストエフスキーは凄い。
トーマス・マン等を読むと、時に少し古びていると感じる瞬間があるが、ドストエフスキーにはそれがない。
19世紀に書かれたとはとても思えない程、物語は鮮度が高く、そして何より、どれを読んでも完成度が途方も無く高い。面白いのだ。
半年にわたってドストエフスキーばかり読んできた。全く手付かずの状態から、ふと気が付くと4大小説を読破していた。
今は小休止を置いている。それでも江川卓の『謎とき『罪と罰』』を読んだり、亀山郁夫の『『罪と罰』ノート』を読んだり、ドストエフスキーの周辺を漂ってはいる。
これらを読んでいると、必ずと言って良い程ミハイル・バフチンの名前が出て来る。どうやらそれを読まねば話にならないようだ。かなり前『ドストエフスキーの詩学』は購入した。県立長野図書館に『ドストエフスキー創作の問題』があるのも確認してある。
小林秀雄『ドストエフスキイの生活』を読み終えたら、いよいよミハイル・バフチンに挑んでみようと思っている。
ドストエフスキー生活はここ当分止みそうにない。