20191206

不完全な行為としての読書

アンリ・ベルクソンの『時間観念の歴史』を読んだ。
哲学の諸相に時間観念がどの様に影響してきたかというテーマで行われた、コレージュ・ド・フランスの講義の記録だ。時間という観念を導入することによって、所謂ゼノンの逆理なども、合理的に解決することが出来る。プラトンやアリストテレスを豊富に引用した講義録だった。
余り詳しくないギリシャ哲学からの哲学史を、分かり易く解いていて、興味深く読書を進める事が出来た。面白かった。

ところで、この様な本には当然のように豊富な注釈が付いている。そこに書かれた幾多の本を、私は殆ど読んでいない。
これは『時間観念の歴史』に限らず、あらゆると言って良い読書につきまとう、私の不備だ。
体系的に学んだものと言ったら地質学しかない。
知の体系の基本となる文献を、若い頃読んでいない。知はそれらを当然既知のものとして、書かれている。
慌てて、注釈にある本を読んでみても、今度はそこにある引用文献を読んでいない。
今度はそれを読む。この様にして永遠の遡行を強いられることになる。

今回は、『時間観念の歴史』を読んだ後、アリストテレスの『形而上学』を読んだ。

これを読まずに、哲学書を読んでいたと言う事を、恥ずかしながらも、ボソボソと告白しなければならない。何という無謀な事をしていたのだろうか?!

幾多の本の中に使われていた、基本的な用語が、どの様な意味で、どの様な文脈の中で使われるのかが書かれている。

読んで、ようやく理解出来た事は極めて多い。

そこにもプラトンが平気で引用されている。
私が読んでいない文献だ。

そればかりではなく聞いたこともない名前のフィロソファーたちの引用も溢れている。

それらを全て網羅していったら、私の寿命は簡単に終わるだろう。

この様にして、私の読書という行為は、いつ迄経っても不完全なまま放置される。

仕方があるまい。私の知は、永遠の素人芸に過ぎないのだ。

その時の興味の赴くままに、一度に一冊ずつ、友人のWが言う様に、蟻が卵を巣に運ぶようにコツコツと読んで行くしかない。

なんだかんだ言いながら、それでも何とか、今迄本だけは読んできた。これからも読書を続けて行くだろう。
だが、それは永遠に不完全な行為として行われているのだという事を、私はコンプレックスとして抱え込んで行くしかない。

本は、読めば読むほど、読まねばならない文献が増えて行く。
読みたい文献もまた、どんどん増えて行く。

私に残された時間は、果たしてどのくらいあるのだろうか。
それを少し不安に思いながら、私はこの不完全な行為を連綿と続けて行くだろう。

どこ迄行くことが出来るのだろうか?

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