その他にもカメラが安定しない手持ちの物だったり、2重写しが用いられていたりで、ゴッホの不安定さがこちらにも伝染してくるのではないかとも思われる演出が、映画全体を支配している。

その演出に決定的な生命力を吹き込んでいるのが、ゴッホを演じたウィレム・デフォーの迫真の演技だ。
ゴッホには絵と弟のテオしかなかった。
唯一才能を認め合ったゴーギャンとの共同生活も、ゴッホの行動によって破綻。ゴーギャンに去って欲しくないゴッホは、自らの耳をカミソリで切り落としてしまったのは有名なエピソード。
その姿を、あの自画像そのままのイメージで、描いている。

何故絵を描くのか。その問いが、映画の中で何度か繰り返される。絵を描く事は、神によって与えられた才能だとゴッホは言う。だが、その思いはなかなか理解されない。絵を描く才能は、ただゴッホを苦しめるだけなのだろうか?
絵を描く事を始める前、神職に就こうとも思っていたゴッホは、イエスの生涯に自分を重ね合わせる。イエスも、生きていた頃は、全くの無名だったのだと。
彼は言う。未来のために描いている。
永遠の門という題名の意味は、最後まで明らかにされない。けれど、ゴッホの絵は、後の世の人々の心を掴み、確かに永遠のものになっている。
映画の中に、救いはない。只報われることなく、ひたすらに絵を書き続けたゴッホがいるだけだ。けれどその絵を描くという行為は、確かに永遠の門を押し開けたのではないだろうか。
映画の中で、2016年に126年間眠っていたゴッホの素描が発見されたことの顛末が、描かれている。棚に無造作に置かれ、しまい忘れられていたのだ。
このエピソードが語るように、生前のゴッホは、同時代人に全くと言っていいほど理解されていなかったのだ。
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