20191223

『永遠の門』

現代美術家でもあるジュリアン・シュナーベル監督が、画家を主人公とする映画を発表するのは、デビュー作である『バスキア』以来これで2作目となる。『バスキア』はニューヨークアート界の商業化に揉まれ、疲弊して行くバスキアの無垢な魂に光を当てていたが、『永遠の門─ゴッホの見た未来』ではゴッホの目にこの世界がどう映っていたかを観客に体感させる映画となっている。

その狙いは機材にも現れていて、ゴッホが対象物のどの部分に意識を集中させていたかを表現するために、映像の半分が接写、半分がノーマルに映し出されるレンズ=スプリット・ディオプターが多用されている。
その他にもカメラが安定しない手持ちの物だったり、2重写しが用いられていたりで、ゴッホの不安定さがこちらにも伝染してくるのではないかとも思われる演出が、映画全体を支配している。
ゴーギャンのアドバイスに従って、南仏アルルに移住したゴッホが、初めて絵筆を採る場面が印象深い。無造作に脱ぎ捨てられた靴が、ゴッホの脳内で構図を得て絵画のモチーフになる過程が、靴のクローズアップの画角の変化で表現される。ここから先の映像は、風景も静物も人物も、そして色彩やアングルも、ゴッホの感受性というフィルターを通したものであると予告する演出だ。

その演出に決定的な生命力を吹き込んでいるのが、ゴッホを演じたウィレム・デフォーの迫真の演技だ。

ゴッホには絵と弟のテオしかなかった。
唯一才能を認め合ったゴーギャンとの共同生活も、ゴッホの行動によって破綻。ゴーギャンに去って欲しくないゴッホは、自らの耳をカミソリで切り落としてしまったのは有名なエピソード。
その姿を、あの自画像そのままのイメージで、描いている。

何故絵を描くのか。その問いが、映画の中で何度か繰り返される。絵を描く事は、神によって与えられた才能だとゴッホは言う。だが、その思いはなかなか理解されない。絵を描く才能は、ただゴッホを苦しめるだけなのだろうか?

絵を描く事を始める前、神職に就こうとも思っていたゴッホは、イエスの生涯に自分を重ね合わせる。イエスも、生きていた頃は、全くの無名だったのだと。
彼は言う。未来のために描いている。

永遠の門という題名の意味は、最後まで明らかにされない。けれど、ゴッホの絵は、後の世の人々の心を掴み、確かに永遠のものになっている。

映画の中に、救いはない。只報われることなく、ひたすらに絵を書き続けたゴッホがいるだけだ。けれどその絵を描くという行為は、確かに永遠の門を押し開けたのではないだろうか。

映画の中で、2016年に126年間眠っていたゴッホの素描が発見されたことの顛末が、描かれている。棚に無造作に置かれ、しまい忘れられていたのだ。
このエピソードが語るように、生前のゴッホは、同時代人に全くと言っていいほど理解されていなかったのだ。

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