20080916

志賀高原 行

最近思うように歩けない事にぶつくさ言っているばかりだったので、リハビリを兼ねて9月14日、志賀高原の高天ヶ原まで行って来た。と言うと格好良いのだが、女房殿に連れて行かれたと言った方が正しい。どこかに行くにしても車ばかりで、周りの景色を見る事がなかなか出来ないので、バス〜電車で山に行きたかったらしい。それもひとりではなく。

どうでも良いが、高価い!高価過ぎるぞ!長野電鉄!!。

わたしの方は1km歩くのも精一杯の状態なので、登山は諦めてもらい、ロープウェイ〜リフトと乗り換えて頂上迄運んでくれると言う何とも、情けないと言うのか、ずぼらと言うのか、恐らく結構歩けた20代の頃だったら頭から軽蔑していたであろうコースを選んでくれた。

だが、山は山。乗り換えのときなど、どうしても坂道を歩かなければならない。しかも、観光開発が進んでしまっている所は歩く通路がきちんと舗装してあったり、板が敷き詰められていたり、つまり足にかなりの負担をかける構造になっている。

最大の故障箇所の右股関節をかばって歩く為、とりわけ下り坂では腰や膝に負担がかかる。

体重を大幅に落とさなければ…と痛切に感じた。

だが、行って良かった。
空の色、風の香り、そして何より周りの風景が全く日常と異なる。

信濃に戻って来たとは言え、大通りの脇に住まいを選んでしまった為、県外の人が抱くであろう信濃のイメージ、「自然豊かで、爽やかな…」とはかけ離れた生活をしている。
先日、井の頭公園に行った時は普段より多くの昆虫や植物に囲まれかなりショックだった。

高天ヶ原には、囲まれていたい環境があった。と、思い切って言ってしまおう。

実は頂上に着く迄なかなか感性が動き出さず、山や植物を見ても無感動だったのだが、植物園にある花々に10頭程のクジャクチョウが乱舞する姿を見て、心が動き始めた。
あれだけの頭数のクジャクチョウを一度に見たのは初めてだ。

あまり動けないわたしをチョウの園に置いて、女房殿はあちらこちらに歩き回っていた。本当は思う存分に歩きたいのだろう。いつか、一緒にその願いを叶えさせてやりたいものだ。それはわたしの為でもある。

わたしも少しは歩いたのだが、どう考えても合計で3kmくらいなもの。情けないが、それでも股関節に痛みが宿ってしまった。
痛むのは若い頃と同じなのだが、要するに、気力が衰えて来ているのだろう。真剣にリハビリをしようと言う気になった。これでは人生がつまらな過ぎる。

どの位、山頂に居たのだろう?最終のゴンドラリフトに間に合うようにと、急ぎ目に引き上げることにした。
リフトの中では激痛が走る。歩いた後、バランスを取る為に微妙な動きが必要な環境に身を置くとどうしてもこうなる。

ロープウェイの中では椅子席を譲られたが、動いているロープウェイの中では歩く事もままならない。終点に着いた時、丁寧にお礼を言ったが、ちょっと失礼な事になってしまった。

ホテルで温泉に浸かって行く事にした。
800円。と言われ、ふたり分だと思って1000円札を出したら、ひとり800円だと言う。当然大浴場を使えるもの…と思いきや、反対方向の浴場への行き方を案内された。
それが粗末なものだった事も呆れ返ったが、湯の熱さにも驚いた。これでは足湯しか出来ない。と足だけを湯に入れていると、見る間に真っ赤になった。
誰も入っていない事を良しとして、水をじゃあじゃあ入れる。ようやく一角が身を沈めることが出来そうな温度になったので、少し浸かったが、果たして何分だったのだろう?恐ろしく高価い温泉だった。

湯の質は良い。

帰りの電車の中から中秋の名月が見えた。

20080901

夏の終わりの豪雨が去って

昨日(8月31日)は二百十日。だが、日本列島に絡み付くように広がっていた前線に伴う雨雲は剥がれて行った。太平洋上にも颱風の発生は見られなかった。

今回の豪雨は所謂ゲリラ豪雨(〜雷雨としているのは極限られたサイトだった)とは異なり、オホーツクに停滞している高気圧の為に身動き出来ずに停滞していた前線に南からの湿った空気が吹き込んだ為に起きたとされている。実際に衛星画像を見ると、日本列島に沿うように分布していた雲に、南から、それとは氏素性の異なる雲がぺたぺたとくっついてゆく様子が分かった。

ここ善光寺平では雨はそれ程激しくなく、むしろ、今にも止みそうな雨がいつまでも降り続く、そんな天候だった。
仮に今が戦時中で、情報統制が徹底していたら、あの雨が多くの地方で大被害を出していたとは知る事も出来ず、それを感じ取る事も出来なかったに違いない。

前回、日本列島の気象は熱帯のそれであると書いたが、やはりそうでもなさそうだ。季節は少しずつ動いている。
車道の脇に植えられている桜の葉も色づき始めた。…とは言えその幹にミンミンゼミが留まり、盛んに啼いているのだが。

今年の天候は、夏になる前に暑くなり、秋になる前に涼しくなってしまった。その様に捉えるのが最も妥当であるように思える。

昨日は局地的な雨を降らせていた浅間山方面の積乱雲と北側の層雲の縁を造る鰯雲が見事なコラボレーションを見せていた。

夏と秋が同居しているような光景だったが、秋と言うにはまだ早いという感覚がわたしの身体の中にある。それは空の色であり、空気の湿り気であり、聞こえて来る虫たちの声からの判断なのだが、東京で培った9月の暑さへの警戒感も少し混じっているようにも思う。

実際に今日(9月1日)は暑く、数は少ないもののミンミンゼミが盛んに啼いていた。

20080815

日本近海で颱風発生

1日のうちに颱風になった。そんな気がする。

朝のうちは巨大な積乱雲が幾つか集まった塊だった。それが衛星画像をReloadする度に急速に渦を巻いてゆくのが分かった。15時頃、これは颱風になるなぁ…と観念したのだが、気象庁の平成20年08月15日16時25分発表の台風情報によって、ついさっきまで熱帯性低気圧だったものが、颱風11号Vongfong(ヴォンフォン:すずめ蜂)に変わった。

感慨深いものがある。颱風とは遠い南海で発生し、それが徐々に近付いてくるもの。そうしたイメージがある。ことごとく覆された。颱風すずめ蜂は明らかに日本近海で成長し、発生したものだ。いよいよ日本も颱風の発生地点になってしまった。

最近流行りのゲリラ雷雨にしろ、当たり前のようになってしまった「猛暑日」にしろ、日本の、少なくとも夏の天候は熱帯そのものと言ったほうが良い。

予報では、颱風すずめ蜂は伊豆半島をかすめ、そのまま太平洋東海上に抜けるようだ。さほどの影響を与えるものとはならないだろうが、兎にも角にも日本近海の暑さに驚かされた。


長野は昨日の朝と夕方の雨によって、かなり過ごしやすい日となった。真昼にミンミンゼミが啼いていた。だが、これも一種の慣れであって、わたしたちはもはや30℃を超えても全く動じなくなっている。わたしたちが子供の頃は、30℃を超えるというのはひと夏にそれ程なく、「異常に暑い日」という意味だった。
気温がかなり低いレベルで推移した昨日も、難なく30℃を超えていた。


それでも、大分季節が推移してきた事をこの頃感じる。夜中に鳴く秋の虫の声は日増しに大きくなり、発達する積乱雲の勢いも弱まって来ている。

この時期になってようやく、今日この部屋から初めてキアゲハを見る。


我が家には今、オスのカブトムシが居る。どこからか飛来してきたのか、或いはベランダを伝って歩いてきたのか、日曜日、突然ベランダに現れた。
最初は情が移る前に山に放してやらねば…と思っていたのだが、お盆というものは何かと忙しく、ずるずると餌をやったりしているうちに、やっぱり情が移った。
何やかやと理由をくっつけて、部屋で放し飼いにしている。

颱風すずめ蜂もそのうち「理由」のひとつになるのかも知れない。
「颱風が去るまで、居させてあげたほうが良いのではないでしょうか?」などと…。

20080807

立秋

ブログの更新が滞っていた。暑かったからだ。

今日は立秋。
朝からミンミンゼミが啼く。最高気温は33℃が予想されている。どこにも秋の気配はない。むしろ、7月29日頃からようやく夏が始まった感覚がある。
だが、猛暑の場所は毎日のようにどこかにある。とりあえず、その前から梅雨明けを宣言していたのはさほど不自然な事ではなかったのかも知れない。

北からの上空の冷気がなかなか去らず、丁度梅雨の戻りのような気圧配置になり、不安定な天候が続く。太平洋上には低気圧が停滞している。どこにどっかりと腰を据えた夏の太平洋高気圧があるのだろう?

この頃、比較的(わたしとしては)精力的に動き回っていた。調子がいいのか?そう思っていたが昨日、遂に夏バテした。微熱があり、貧血症状が去らない。部屋の中に居ながら熱中症になったような気もする。何故か恥ずかしい。

自転車の調子が悪かった。汗だくになってポンプをこいでも、ある一定の空気圧になると入らなくなる。そのまま自転車に乗ると、さほど距離を稼がないうちに空気が抜ける。

4日、通院したついでに病院の近くにある自転車屋さんで様子を見てもらう。

フランス式のバルブは、手で空気を入れようとする事自体が無理なのだ。と言われる。その後も使い方に関してお小言を頂く。宝の持ち腐れだとも言われた。

空気圧が充分でないうちに何回か乗ったせいだろう。或いは、直前にちょっとした凹凸に乗り上げて転倒した時かも知れない。後輪がパンクしていた。意外だった。空気が抜けやすいのは、むしろ前輪だった。パンクしているとしたら前輪だと思っていたのだ。

忙しそうだったので、翌日自転車を取りに行く。その間乗って下さいと代わりの自転車も貸してくれた。しかし(当然ながら)変速は出来ない。久し振りにもがいた。

自転車を受け取りにいった日は、何故か早起きしてしまい、1時間間違えた。自転車屋さんはまだ開いていなかった。これと言って休む場所もない。仕方がないので、すぐ近くのスーパーマーケットにあるベンチで休んでいたのだが、直射日光直撃。

これが結構効いた。

何となく、体調の悪さはこれが原因だったような気がする。情けない話だ。

20080728

季節が分からない

昨日(27日)の夕立は凄まじかった。

降り始めた頃は今迄の夕立同様、すぐ上がるものとばかり思っていたのだが、暫く経つと、雷が周り中から聞こえ始め、単に積乱雲の縁が擦った程度のものではないと思い知った。

落雷に備え、雨が降り始める直前からコンピュータの電源は落としてあったのだが、その前に雲の様子をチェックしておくべきだった。かなり広範囲に広がる積乱雲だった。

16時頃、一旦雨は上がった。その隙をつくように女房殿がお買い物なんぞに出たのだが、車のシートに坐った途端、土砂降り。帰って来るように手招きしたのだが、通じず。

結局18時頃迄土砂降りが続いた。

だが、雨上がりの光景は、見事だった。
くっきりした虹が東の空に掛かり、その後、遠くの山が急速に明るくなってゆくのが見えた。
すぐ上の低い雲に日光が反射していたのだろうか?昼間見る山々より遥かに明るく、すぐ近くにある早春の草原を見ているような色彩が広がった。

あのような色彩の東側の山々を、少なくともあのような淡い緑色をした菅平をわたしは今迄見た事がない。


夜になって、再び雨音がし始めた。
今朝(28日)4時頃には一時的に青空が望めたが、遠くからは依然として頻繁に雷の音が聞こえ、1度、近くに落雷あり。
6時頃から再び降雨。沈む気分を自分でもり立てて何とかドイツ語の放送をこなす。

雨が鬱陶しいな。と思いながらゴミ出しに出掛け、帰って来るとまだひとつ、ゴミ袋が残っている事に気が付く。やれやれ…。


ところで、今のこの季節、どのように呼んでいいのかやはり分からない。

荒天は各地で被害も出したようで、ダウンバーストかガストフロントによるものと考えられる突風が幾つかの地域で観測された。

梅雨末期の荒天。そう呼びたくなる。

20080725

夕立

15時丁度、冷たい風が吹き始め、これは…と思っているとぽつりぽつりと雨が降って来た。最近連日のように極めて短い夕立が降る。3日前には30秒の激しい夕立が降った。

いくら激しく降ってくれてもこれでは湿度を上げるだけで不快指数はより高くなる。

今日も同じような短い夕立だろうと思っていたら、やはり1時間で青空が見えた。最近の青空はやや彩度が低く。数日前迄見えていた「美しい夏」を想起させる青さではなかったが、夕立の後それが戻って来た。

しかし案の定蒸し暑い。今日も不快指数を上げるだけの夕立だったか…と再び机の前に戻ったのだが、雨雲レーダを見ると、東北地方に雨を降らせている(どう考えても梅雨前線にしか見えないのだが)雲の列と並行して、細い雨雲の列が北信濃に延びて、西に進んでいる。

気温を見るとこの雲の列が通過している地域だけが15時の気温が30℃に達していない。

雨を期待して再びベランダに出る。確かに外の気温は低い。雲の列は気温を下げる効果を発揮していた。

期待通り、16時半頃再び雨が降り始める。今度は17時半頃迄降り続いた(また1時間だ)。

雨が上がるとすぐに陽が射し始める。やや蒸し暑かったが、これは虹が見えるのではないかと東の空を凝視する。虹を見ようとしなければ決して見えない程度の淡い虹だったが、確かにあった。それも弧の端から端迄しっかりと連続している虹だった。

再び机の前に…、蒸し暑い。

やはりコンピュータ2台と冷蔵庫に囲まれた環境がこの蒸し暑さの主な原因なのだろう?作業環境をもう少し合理的なものに変えてゆく事を考えねばならないのだろうか?やはり…。


雨が降り始めた15時頃、太平洋でも変化があったらしい。少し前から徐々にではあったが積乱雲の渦が成長し続けていた。それが颱風8号となった。Fung-wong(フォンウォン。山の名前。フェニックスと同じ意味らしい)と言う名が付けられている。またも台湾に向かって進んでいる。颱風がある辺りの海水面温度はほぼ28℃。これ以上北に進んでいたら颱風にはならなかったかも知れない。とりあえず本州に向かって来ないようなので安心しているが、中心気圧は994hPとかなり低い。

夕立が降り終わるや否や、一斉にアブラゼミが鳴き始めた。
「美しい夏」が帰って来た。

20080714

あの日、とはいつのことだったのだろう?

暫く前に、リンク集、「大気圏」に『みゃるの避難日記』を置いた。

2000年の三宅島噴火は奇妙な噴火だった。
火山には大抵、それぞれ固有の癖があり、大まかに見ると大体いつも同じような噴火の形式を踏んで、同じような経路を辿る。

三宅島の直前に噴火した有珠山はその好例で、次に起こる事が大体予想出来た。

三宅島は噴火が始まると、小規模な爆発はあるが、基本的には大量の熔岩流を噴出させ、大まかな火山活動は収束に向かう。

2000年の時も大方の学者は、そしてわたしも、そのような経路を辿るものと思っていた。

だが、地下からあがって来た熔岩流は地上で流れ出す事はなく、三宅島の地下で、神津島の方向に岩脈となって入り込み、ほんの一部は海底で噴火を起こしたものの、大方のマグマは地下に留まった。

2000年三宅島噴火は、余り例のない爆発的噴火を繰り返す形の噴火となった。

『みゃるの避難日記』には三宅島の島民であるみゃるさんが、最初の噴火から、全島民避難に至るまでの貴重な、余りにも貴重なドキュメントだ。

毎年、目を通す。

2000年の噴火が起きたのは、みゃるさんが三宅島に住み始めてから8年経った時だったと『…避難日記』には書かれている。

あの日から8年が過ぎた。噴火の年に産まれた子供も、小学2年生になっている筈だ。
だが、それ程昔の事とはとても思えない。

そして、いつも戸惑う。あの日から、と、毎年思うのだが…
あの日とは、いつのことなのだろう?
最初の噴火の日からなのか、低温火砕流が流れ出し、みゃるさんがそれに巻き込まれた大噴火の日からなのか?それとも全島民避難の日からなのだろうか?

地震と異なり、火山噴火災害は、長期間に及ぶ。三宅島の島民は、全島民避難の日から5年間、三宅島に帰る事が出来なかった。
遂に帰らなかった島民も居る。

その5年間の間に亡くなってしまった方々。或いは、新しい生活を、新しい土地で始めた方々。三宅島の人口は大幅に減り、かつ、高齢化が進んでいる。

みゃるさんは三宅島にかなり早い時期に帰り、その日からの記録をBlogにまとめてもいる。

島は、容易に噴火以前には戻らない。


わたしはみゃるさんから同じ災害と言うものはふたつとしてない、と言う事を教えられた。
仮に2000年の三宅島噴火が、通常の、熔岩流を噴出させるタイプの噴火であったとしても、この事は変わりがないだろう。ただ、その事が見えにくくなるだけだ。

災害があるたびに、「…年前の教訓が生かされなかった」と、安易に書かれた新聞記事を良く目にする。
だが、…年前と「今回」は常に異なる。その事は余り触れられない。

そして、わたしも2000年三宅島噴火が起こる迄、三宅島とは、第一に火山島であり、そこに暮らす人々が居る事を忘れがちだった。