20211231

時間の矢・時間の環はあった

 今住んでいる住宅に引っ越す時、私は膨大な量の本を処分した。持っていた本の2/3は売っただろうか?図書館にある本は全て売るを基本路線として、売った本はノートに纏めて整理した。今、そのノートを見ていると、私は何と魅力的な本を持っていたのだろうという感慨が押し寄せてくる。

だが、見ていて気が付いた。スティーヴン・ジェイ・グールドの名前がノートには見当らないのだ。

彼の本は殆どを持っていた。どうせ図書館に在庫があるに違いないと見越して、彼のエッセイ、学術書を売りまくった。敢えてノートには記さなかったのだ。

不安になって検索してみた。予想通りスティーヴン・ジェイ・グールドの本は殆ど図書館にある事が確かめられた。

だが、『時間の矢・時間の環』と『個体発生と系統発生』は県立にも市立にも在庫がない。少し焦った。

『個体発生と系統発生』は賞味期限切れであるという噂を耳にした事がある。だからこれはパスしても構わない。だが、『時間の矢・時間の環』はもう一度再読したい。

調べてみるとamazonにも在庫がなく、古書店で高値で取引されている事が分かった。大問題である。今、私には金銭的な余裕は全くない。とても手が出ない。

それとも思い切って買ってしまうか?

かなり悩んだ。

だが、本を売る時、入念に図書館の検索はした記憶がある。万が一と言う事もある。

意を決して、探してみる事にした。以前の1/3になったとは言え、それでも持っている本は余りに多い。

本棚には前後2段に本が入れられている。表面に出ているのは新書か文庫本が多い。単行本はその後ろにある。

片端から表面の本をどかしてみて、裏側の単行本をチェックしてみた。

何と!あるではないか!


自分で自分を褒めたくなった。スティーヴン・ジェイ・グールドの『時間の矢・時間の環─地質学的時間をめぐる神話と隠喩』は2段に積んである文庫本の後ろで、ひっそりとその出番を待っていた。私は奇跡的にこの本を売らずにとっておいたのだ。

踊り出したい気分に包まれた。双極性障害の影響で、鬱々と過ごしている事が多い私には、滅多にない事だ。

自然淘汰による変化を基本に据える進化論にとって、膨大な地質学的時間は重要な鍵を握る概念だ。その時間をテーマに思考を重ねた本書は、スティーヴン・ジェイ・グールドの著作の中でも、重要な著作だと言えるだろう。

これで今読んでいる『進化理論の構造』との格闘に専念できる。思う存分もがき苦しもう。

20211230

Clubhouseその後

殆ど行かなくなった。

僅かに笹沼弘志さんが時々開いてくれる法学の議論を聞きに行くだけで、全くと言って良い程発言はしていない。

この夏、女房殿のみゆきさんが定年退職を迎えた。全く仕事をしなくなった訳ではないが、在宅時間は桁外れに増えた。その影響が大きい。同じ部屋にふたりでいると、おいそれと音声SNSをするのに気が引ける。やはり発言を聞かれたくないのだ。

Clubhouseで発言しているうちに、実生活と微妙に異なるClubhouse人格が作られてしまった。見栄を張っている訳ではないが、物事にはモノの弾みと言うものがある。

その違いを指摘されると、どうにも気恥ずかしい。

音声SNSで見知らぬ人たちと話し合うより、まずは身近なみゆきさんとコミュニケーションを計りたい。

だが、それだけがClubhouseに行かなくなった理由ではない。

空いている時間は読書に充てたい。その意識が強い。図書館から月に10冊本を借りて、それを読み切る事にしている。

私は本を読むのが遅いほうだ。なので月に10冊の本を読破するだけでも、かなりの努力を必要とする。それだけで精一杯なのだ。

SpotifyをPremiumに引き上げたのも大きい。主に古楽を聴いている。耳はそちらに使いたい。

それに、Clubhouseで立ち上げられるroomに、さほど魅力を感じなくなった事も、大きく影響している。

雑談が多い。元々雑談を楽しめる方ではない。喋る事がどうにも苦手だ。なので発言は常に力一杯頑張る事になる。小一時間音声SNSで発言していると、それだけで疲れ果ててしまう。おわっった後は少しの間、何も手に付かなくなる。時のコストパフォーマンスが私にはかなり低いものになってしまうのだ。

体力・気力をフル回転して、得るものはそれ程多く無い。そうなるとどうしても音声SNSに食指が動かなるなる。

音声SNSは、そこを自分の居場所と認識出来る人が入り浸る。私はそうした態度に違和感を覚える。聞いているうちにどうしようもなく白けてしまうのだ。

またClubhouseの特徴として、若い人が圧倒的に多く、相手を否定する事を、強く嫌う傾向がある。私はこれにどうしても馴染めない。還暦を過ぎた私には、Clubhouseは似合わないのだ。

巧く行っている時には、Clubhouseにようやく見つけた自分に合ったSNSという感覚を抱いた事もあった。だがその時期はもう遠く去ってしまったようだ。

自分ひとりの時間がまた持てるようになったら、Clubhouseにもまた戻る事があるかも知れない。だが、今はその時ではない。

私とSNSの相性はそれ程良いものではない。

20211224

ヴィネガー・ガール

よもや読み切れるとは思っていなかった。

図書館から今回の本を借りていられるのも今日までだ。アン・タイラーの『ヴィネガー・ガール』はかなり厚い。これより薄い本でもっと手間取っていた。読み切れなくても読める範囲まで読んでみようと思い、あまり急ぐ事なく読んでいた。

薄い本は論文だった。小説なのでそれより遥かに読み易い。だがこれなら今日中に読めるのではないかと思い始めたのは第10章を過ぎた辺りからだった。


解説の北村紗衣さんによると、この本の原作であるシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピアの数ある作品の中で、最も問題のある作品だと言う。確かに若書きで、かつ差別的だ。Washingtonpostのインタビュー記事Anne Tyler loathes Shakespeare. So she decided to rewrite one of his plays.によると、作者アン・タイラーはシェイクスピアが嫌いで、特に『じゃじゃ馬ならし』は別格で大嫌いだと言う。それ程嫌いならば、書き直してしまえというのが、この本が書かれた動機らしい。

成る程、重要な場面で僅かに痕跡は残されているものの、本書にシェイクスピアの原作の片鱗もない。作者も編集者もいい度胸をしている。よくぞここ迄壊し切ったものだ。

舞台はボルティモア、ヒロインのケイトは大学をドロップアウトしてプリスクールで働いており、ぶすっとして感じの良くない女性だが、原作のキャタリーナに比べるとぶっ飛んだところは少なく、スティーヴン・ジェイ・グールドを好む、ユーモアセンスのある、実にまともな市民だ。むしろ研究者である父親のルイスの方が相当な変人だ。奇妙な習慣を二人の娘に押し付けており、さらに日常生活はケイトに頼りっ切りで全く自立出来ておらず、極めて問題のある親だ。

原作に出て来る強制結婚は、外国籍である優秀な研究者ピョートルのヴィザを獲得すべく、雇い主であるルイスがケイトに偽装結婚を勧めるという現代的な展開に変わっている。ケイトは最初、猛烈な拒否反応を示すが、流される様なかたちで協力することになってしまう。

ピョートルとの不本意な出会いを通して、どういう訳だか解放されて行ってしまうケイトの姿をユーモアを交えて描いたロマンチックコメディになっている。

集英社の「語りなおしシェイクスピア」シリーズでは、これまでに、マーガレット・アトウッドの『獄中シェイクスピア劇団』と、エドワード・セント・オービンの『ダンパー メディア王の悲劇』が刊行されている。両作とも非常にシェイクスピアに詳しい作家が、たくさんシェイクスピアネタを盛り込んだ、割と濃いめの作品だ。一方『ヴィネガー・ガール』はこの二作に比べるとシェイクスピアを知らなくても楽しめるところが多く、むしろシェイクスピアが嫌い、『じゃじゃ馬ならし』が嫌い、といった人こそ気軽に楽しめる小説になっている。『ヴィネガー・ガール』が面白かったという方には、原作の戯曲を呼んで下さいとは言わない。本作と同じく『じゃじゃ馬ならし』が原作の映画『ヒース・レジャーの恋のから騒ぎ』やバーナード・ショーの『ピグマリオン』を手に取って見て頂きたい。どちらも本作の良い友達と言える作品だと思う。

20211221

ライティングの哲学

 読み始めの頃、この本のどこが哲学なのだろう?と思った。

書けない悩みを寄ってたかって吐露し合っている。それだけの内容で、深みに欠けると感じたからだ。だが、その悩みの吐露の中で紹介される様々な文筆用ソフトは役に立った。この文章もあらかじめWordflowyで概要を組み立ててから書かれている。


なぜその様に苦しみながら書くのだろう?と訝しく思えてくるほど苦しんでいる。職業にするほどなのだから、元は文章を書くのが好きだったのだろう。それがいつの頃からか苦行に変化する。それは文章を書く事を仕事にしたからだろうか?それとも別の理由があるのだろうか?

総じて、ものを作ることは、本質的には楽しい事だ。だが、楽しいだけの作業ではない事はよく理解出来る。より良いものを作り出したい。その思いが楽しい作業を苦行に変えるのだ。

子どもは喜んで、夢中になって絵を描く。だが、それを才能と勘違いした親が教室に通わせて、先生の指導の下に絵を描く様になると、純粋な喜びは失われる。絵を描く事を辞めてしまう子どもも多い。

それと同じ様に、自分の思いのまま書いていた文章が、読者のため、お金のためとなり、思うように書けなくなる瞬間がある。そこをどう突破するかが才能の分れ道なのだろうが、大抵の執筆者は書く事が苦しくなる。

この本はtwitterの書き込みをきっかけとして、4人の執筆者が集まり、書けない悩みを打ち明け合った「座談会その1」、それから2年が経過したのちに変化した執筆術を書き下ろした「執筆実践」、書き下ろされた原稿を読み合い熱論した「座談会その2」の全3部で構成されている。

挫折と苦しみ、断念、制約と諦め、悲惨な言葉が飛び交う。

この本に深みが出て来るのは「執筆実践」の辺りからだ。

互いに悩みを吐露し合う事で、悩み自体が相対化されるのか、執筆者はそれぞれ、別の仕方で次の次元に進んでいる。

だからだろうか。「座談会その2」は「快方と解放への執筆論」と題されている。執筆から離れるべきだという提案もなされる。執筆の執は我執の執だという名言付きでだ。

書くのであれば良い文章を書きたい。そうした執着が書く苦しみを産む。そうではなく、以前の書く楽しみを復活させたいのであれば、妙なプロ意識やエリート意識は捨て、執着から解放された場で文章を組み立てて行くべきなのだ。なんと言っても書かれなければそれは文章ではない。

「あとがき」で執筆者のひとり千葉雅也が書いているが、この本は、なかなか不思議な他に例がない本になっている。

ものをつくることの全てがここにあると言っても過言ではないと思う。これも同じ悩みを持つ者同士が寄ってたかって語り合った成果と言えるのではないだろうか?

ちゃんとしなければという強迫観念からの解放、生産的な意味でだらしなくなることを目指す

そうした境地に4人の執筆者は到達したのだと思う。

彼らは知らずして互いが互いに対して患者でありセラピストであるようなオープンダイヤローグを実践したのだと密かに思っている。

20211217

仲直りの理

 仲直りの理(ことわり)と言っても、仲直りのハウツー本ではない。では何が書いてあるのかと言うと、本書の結論は「はじめに」で簡潔にまとめられている。結論だけを知りたいのであれば「はじめに」だけを読めば足りる。それは

私たちの祖先でいざこざの後にすぐ仲直りできる者と、そうでない者がいたら、仲直りできる者の方が適応的だったので、私たちは仲直りする心の働きをもっている

と言う事だ。私たちは進化の途上で、仲直りする心の働きを獲得したと言う事だろう。


本書はこの結論を様々な実験結果やメタ分析を通して、実証して行く事を目的としている。結論は至って簡単。だがその実証はなかなかにして困難だ。本書を理解して行くのに、私はかなりの時間を必要とした。

それは本書が囚人のジレンマを始めとするゲーム理論や、様々な図表数式をふんだんに用いて書かれている為であり、学生時代から理系の教養を身につけておいて本当に良かったと、しみじみと感じさせられた。

進化とあるので、本書は最初にヒト以外の生き物の仲直りの実例を紹介する所から始まっている。その対象は霊長類は勿論の事、鳥類や魚類にも及んでいる。

この様に様々な生き物に仲直りの実例がある事から、筆者は仲直りの心の動きは収斂進化であると意味付けている。

心の働きも進化するのだ。

心の働きと言ってもそれは、煎じ詰めれば脳機能の事であり、そう考えれば進化して当然なのだが、改めてその事を指摘されると、私には少々意外な気がした。

その上で筆者は価値ある関係仮説や不確実性低減仮説など、様々な仮説を用いて仲直りの機能とメカニズムを説明して行く。

と言っても本書は各章末にまとめが付いており、更に本文で触れられた概念や理論を簡潔にまとめた8つのコラムから成り立っており、丁寧に読んでゆけば理解できる様に書かれている。

全ての場合に仲直りする事は報われる訳ではないが、大極的に見れば、赦しは理に叶っており、お人好しに見られるかもしれないが、赦す事は適応的である事が実証されているのは、何となく救われる思いだった。

この様に書くと仲直りは簡単な事に思えてくるが、それをいざ実行に移そうとすると、現実的にはかなり困難を伴う行動だ。だがそれ故に、常に赦しの姿勢を保っていようと言う気にさせてくれた。

本書を読む事は、充分に価値がある。

20211212

あまりに人間的なウイルス

勇んで図書館から借りて来たが、私はこの本をすぐには手に取らなかった。ジャン=リュック・ナンシーと言えば脱構築だ。私は恐れを抱いていたのだ。本気で格闘する気持ちでなければ、ジャン=リュック・ナンシーはおいそれと読解出来るものではない。その気分が高まるのを、じっと待ち続けていた。

けれどなかなか気持ちが上がって来ない。このままでは本棚に置いたは良いが、すぐにやって来る図書館の借り出し期限が切れてしまうのではないか?それも勿体無い。意を決して、本書ジャン=リュック・ナンシー『あまりに人間的なウイルス─COVID-19の哲学』に手を伸ばした。


読み始めて驚いた。何と!すらすら読めるではないか。どうやら脱構築の手法は用いていないようだ。若干拍子抜けもした。

調子付いてどしどし読み進めていた私は、ふと疑問を感じた。COVID-19のウイルスのどこが人間的なのだろうか?

その時はその答えが見つからなかった。私は分からずに読み進めていたのだ。

慌てて本書を再読する事にした。

改めて読んでみると、本書には、独特の難解さが充満している事が分かった。普通の文章で書かれている。だが、その意味する所を読解するのは、かなりの忍耐力が要る。例えば

他の多くの地域と比べてヨーロッパでは、躊躇、懐疑、かつての意味での強い精神が重きをなしているとも言いたくなるだろう。これは、推論する理性、自由思想家(リベルタン)の理性、絶対自由主義(リベルタール)の理性の遺産である。

とは、一体どういう意味なのだろうか?

注釈には

「強い精神(espit fort)」とは、現在では先入見や偏見から独立した判断を下す人のことを指すが、かつては「自由思想家」や「無信仰者」を指した。

とある。

フランス語には、意味が沢山あって難しい。

どうやら、「あまりに人間的な」とは、ニーチェの哲学が下敷きになっているらしい事は理解出来た。だが、そもそも私はニーチェも十分には理解していない。

私にはこの本を読むのに必要な、基礎的な学力に難があるようだ。

だが、今更それを言っていても仕方がないだろう。私は私の出来る範囲で理解してゆくしかない。そう覚悟を決めて、先に進む事が出来た。

要はCOVID-19を哲学的に述べるとどうなるかという問題圏と、今後COVID-19とどのように折り合って行けば良いのかという問題圏の要諦に「あまりに人間的な」ウイルスであるという質が重要になってくるという事なのだろう。

Kindleを開くと引用されていた『現代思想』2020.5月号があった。これも読んで理解を深めてゆこうと手ぐすね引いている。ここにはジョルジョ・アガンベンの論考もある。

いやはや。やはりジャン=リュック・ナンシーは一筋縄では行かない、手強い論客だ。

20211209

学術出版の来た道

超お勧め本。特に研究者には必読書と言えるだろう。勿論それ以外の方々にも勧めたい。


学生時代、学術出版には本当にお世話になった。特に学術論文の入手には、学術出版は欠かせない存在だった。

けれど、最近その学術出版に関して、妙な噂を耳にする事が多くなった。

本書は学術出版社と学術誌の辿ってきた歴史を見渡しつつ、現在のアカデミアの状況がなぜこうなってしまったのかが冷静に記述されている。

第4章までは学術書・学術論文の出版史が中心だが、第5章以降が出色だ。学術出版社の経営・学術誌ビジネスの変遷。オープンアクセスの光と影。インパクトファクターの功罪。学術誌包括契約(ビッグディール)。OAメガジャーナルなどの主要な問題点が網羅的に列挙されている。

こうして概要を眺めてみると、自分がいかに良い時代に研究生活をしていたのかがよく分かる。同時に私の生きた時代が、既に歴史になりつつあるのを感じて、一抹の寂しさを味わった。

長くは書きたくない。私は私の来し方を振り返りつつ、学術出版の現状をほろ苦く、しみじみと味わいっていたい。

20211207

自分の〈ことば〉をつくる

題名や媒体(ディスカバー携書だ)から想像していたより、遥かにハードで深い内容を持った本だった。


まえがきに

自分の〈ことば〉をつくるためには、自分の中にあることば(考えていること)をどのようにして自覚するかということと、そのことばをどのようにして他者に伝えることば(表現)にするかの二つがポイントとなります。

とある。この本に書かれていることは、これに尽きるだろう。だがこれだけでは何の事なのかさっぱり分からない。この本には以下この文章の意味するところが、微に入り細に入り説明されている。

初めの方でオリジナリティということが強調されている。何故かと言えば「考えること」(思考)と「表すこと」(表現)の両方がその人固有のものであり、それはその人にしかできないものであるからだ。本書の副題にある通り、「あなたにしか語れないことを表現する技術」が語られているのだ。そしてオリジナリティとは他者との関係の中に立ち現れてくるものであることが強調される。

オリジナリティは、はじめから「私」の中にはっきりと見えるかたちで存在するものではなく、他者とのやりとりのプロセスの中で少しずつ姿を見せ始め、自分と環境の間に浮遊する者として把握される

そしてこのオリジナリティがその人固有のテーマをつくると言う。

意外な事だったのはここで筆者が文章を「自分の好きなように書いて良い」と主張する事だ。

子どもの頃はそれで良かった。だが、その後高校、大学と進むにつれ、文章は好きなように書いていては駄目だと指導される事が多くなった。特にレポート、論文でそうした指導がなされる事が多かった。

だが筆者はその人固有のテーマはその人の「好き」から始まると言う。

この主張は私にとって大きな驚きだった。

ここで考えねばならないのは、筆者はオリジナリティというものが他者との関係の中にあると主張している事だ。

好きなように書くべきだという主張も、子どもの作文のように書けと言う意味ではあるまい。むしろ、問題意識を限りなく自分に近付け、どうしてその関心を抱くに至ったかの「なぜ」を明確化して行く事が、自分のテーマに辿り着く唯一の道であると言っているのだと解釈すべきなのだろう。

言い換えれば、文章を書くと言う行為は、そのものがコミュニケーションであり、相手と自分の主体性をきちんと確立した上で行わなければならない事であると言う事なのだろう。

今まで文章を書くに当たって、私は誰に向かって書いているのかを自覚せず、漫然とやり過ごしていた。それはもはやコミュニケーションの名に価しない。つまり問題は文章をコミュニケーションとして、表現によって他者を説得出来るかを自覚しながら書かねばならないと言う事になる。

言ってみれば従来の私の文章はヴィゴツキーの言う内言の連続であり、他者に伝えるべき外言になっていなかったのだ。

著者の言う様に表現は社会にアクセスするための切り口だろう。

本書を読む事によって、私は目から鱗が落ちる思いを何度も味わった。これから先、私は多少なりとも相手を意識して文章を編む事が出来る様になるだろうか?

20211204

噴火した!

画像がアップロード出来なくなってしまった。これは大変痛い。治るまで、ココログ『夏の行方』にも同じ文章を上げる事にする。今回の記事はココログ「噴火した!」に上げた。こちらには画像がある。

翌日5日確認したところ、画像のアップロードが出来る様になっていた。助かった。これらの顛末は記録の為残しておく事にした。

 荒巻重雄『噴火した!─火山の現場で考えたこと』。

キビキビとした、若々しい文章が並ぶ。とても91歳が書いたとは思えない。著者荒巻重雄さんは、「火砕流」という言葉の生みの親として知られている。60年以上に渡って、常に火山噴火の現場の最前線に居たという印象がある。本書はそうした荒牧さんが自らの火山人生を振り返って記した回顧録だ。記念碑的な著作だと言って良いだろう。


驚くのは遠い昔の話でも、その記憶が鮮明で正確な事だ。常に考えながら行動していたのだろう。

火山を研究するきっかけを問われると、特にきっかけはないと答えるらしい。中学・高校と気象クラブに入れ込んでいて、漠然と気象の方向に進むことを考えていたが、これからの気象学は観天望気ではなく数学と物理をみっちりやるつもりでなければならないと言われ、山歩きが好きなこともあって、東京大学の理学部地質学科を選んだと言う。

進路指導の教諭は適切な指導をしたと言えるだろう。

学部生だった1950〜51年に伊豆大島で噴火があった。荒牧さんも級友と共に現地に赴いた。そこで火山の魅力と恐ろしさを実感する。この時の体験が、荒牧さんが火山を研究するに至る大きなインパクトになったようだ。

だが、荒牧さんは自らの火山学の「ことはじめ」は大学院の時に行った浅間山の研究にあると言う。指導教官に勧められ、二つ返事で飛びついたらしい。当時、浅間山のデータは、圧倒的に足りていなかった。

その後久野久教授に勧められ、フルブライト留学生としてアメリカに渡り、実験岩石がくや巨大カルデラと出会う。

まだ日本では敗戦後の混乱が続き、国民の食生活も満足に行き届いていなかった頃だ。荒牧さんはペンシルバニア州立大学に籍を置き、世界最先端の研究に勤しむ。

その後ヨーロッパを巡り、世界の見聞を深める。

本書に納められた回顧録はどれも面白いが、第13章の伊豆大島1986年噴火と第14章の雲仙・普賢岳1991年噴火がとりわけ興味深かった。

荒牧さんにとっても、印象深い噴火だったと見えて、どちらも比較的長い記述になっている。

私にとっても痛恨の出来事だった雲仙普賢岳の1991年6月3日の火砕流による死傷者を出した被害は、荒牧さんにとっても悔いの残る出来事だったらしく、被害に遭われて生還した人たちの証言を生で引いて、詳細な記録を残している。

このように火山は非常に危険な存在でもあるが、同時にまた非常に魅力的な現象でもある。本書はその噴火の現場に身を置き続けた一火山学者の貴重な記録になっている。荒牧さんが語る火山は、どれも当事者でなければ書けない迫力に満ちている。