20211221

ライティングの哲学

 読み始めの頃、この本のどこが哲学なのだろう?と思った。

書けない悩みを寄ってたかって吐露し合っている。それだけの内容で、深みに欠けると感じたからだ。だが、その悩みの吐露の中で紹介される様々な文筆用ソフトは役に立った。この文章もあらかじめWordflowyで概要を組み立ててから書かれている。


なぜその様に苦しみながら書くのだろう?と訝しく思えてくるほど苦しんでいる。職業にするほどなのだから、元は文章を書くのが好きだったのだろう。それがいつの頃からか苦行に変化する。それは文章を書く事を仕事にしたからだろうか?それとも別の理由があるのだろうか?

総じて、ものを作ることは、本質的には楽しい事だ。だが、楽しいだけの作業ではない事はよく理解出来る。より良いものを作り出したい。その思いが楽しい作業を苦行に変えるのだ。

子どもは喜んで、夢中になって絵を描く。だが、それを才能と勘違いした親が教室に通わせて、先生の指導の下に絵を描く様になると、純粋な喜びは失われる。絵を描く事を辞めてしまう子どもも多い。

それと同じ様に、自分の思いのまま書いていた文章が、読者のため、お金のためとなり、思うように書けなくなる瞬間がある。そこをどう突破するかが才能の分れ道なのだろうが、大抵の執筆者は書く事が苦しくなる。

この本はtwitterの書き込みをきっかけとして、4人の執筆者が集まり、書けない悩みを打ち明け合った「座談会その1」、それから2年が経過したのちに変化した執筆術を書き下ろした「執筆実践」、書き下ろされた原稿を読み合い熱論した「座談会その2」の全3部で構成されている。

挫折と苦しみ、断念、制約と諦め、悲惨な言葉が飛び交う。

この本に深みが出て来るのは「執筆実践」の辺りからだ。

互いに悩みを吐露し合う事で、悩み自体が相対化されるのか、執筆者はそれぞれ、別の仕方で次の次元に進んでいる。

だからだろうか。「座談会その2」は「快方と解放への執筆論」と題されている。執筆から離れるべきだという提案もなされる。執筆の執は我執の執だという名言付きでだ。

書くのであれば良い文章を書きたい。そうした執着が書く苦しみを産む。そうではなく、以前の書く楽しみを復活させたいのであれば、妙なプロ意識やエリート意識は捨て、執着から解放された場で文章を組み立てて行くべきなのだ。なんと言っても書かれなければそれは文章ではない。

「あとがき」で執筆者のひとり千葉雅也が書いているが、この本は、なかなか不思議な他に例がない本になっている。

ものをつくることの全てがここにあると言っても過言ではないと思う。これも同じ悩みを持つ者同士が寄ってたかって語り合った成果と言えるのではないだろうか?

ちゃんとしなければという強迫観念からの解放、生産的な意味でだらしなくなることを目指す

そうした境地に4人の執筆者は到達したのだと思う。

彼らは知らずして互いが互いに対して患者でありセラピストであるようなオープンダイヤローグを実践したのだと密かに思っている。

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