ようやく読み切った。2週間掛かった。
だが、正直なところ今日(9月28日)中に読み終える事が出来るとは思っていなかった。
難産だった。読み切る迄に時間が掛かったのは、本が厚い上に活字が細かく、中でも丹念に付けられた注釈の文字が極端に小さく、しかも長い事が主な理由に挙げられると思う。
ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』は、出版された当時の人々に取ってだけでなく、現在に至る迄、衝撃的な本である。鬼か悪魔の様なイメージを期待されていたアイヒマンは、実は思考することを避けたがる凡庸な男であり、だがその凡庸さの故に、とんでもない悪事を実行したのだ。そう主張するアーレントの議論は、今では既に充分過ぎる程され尽くされたものとされていた。
だが、このベッティーナ・シュタングネトによる『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』の登場は、そのアーレントによるアイヒマン像を根底から覆すだけの内容と根拠を持っている。
アイヒマンによる文章と音声録音という肝心な史料の大部分が放置されていたのだ。
戦後アイヒマンが逃亡したアルゼンチンには旧ナチ共同体が築かれていた。アイヒマンはそこで元武装SS隊員W・サッセン主催の座談会に参加。サッセンはそれを録音し、テープにして70巻以上になる音声のトランスクリプトを作成していた。アイヒマンは囚人となった後も8,000枚に渡る自己正当化を書き連ねた。
こうした史料が網羅的に研究されてこなかったのは、驚くべき事ではあるが、それは各所に分散し、分量は膨大で内容は耐え難い。さらにアルゼンチンでのあけすけな記録をアイヒマン本人が嘘と証言した為と考えられる。
本書は一人の哲学者が成し遂げた気の遠くなるような偉業であり、先駆者アーレントとの対話と言えるだろう。
アイヒマンは最初から、世間で自分がどうイメージされるかを注意深く観察し、それに影響を与えようと努めていた。そうしたアイヒマンは自分が600万人の人間の死に責任があるから「ユダヤ人の敵ナンバー・ワン」だと誇らしげに報告もしていた。
またハンナ・アーレントはアイヒマンについて「どちらかと言えばあまり知性に恵まれていない」と記し、服従という問題がはらむ哲学的重大性を彼は「漠然と察していた」にすぎない、と書いている。しかしこうした反応は性急過ぎるし、何と言っても危険である。アーレントは尋問と裁判の、ごく僅かな供述に基づいてそう言っているのだ。この分野でアイヒマンが行なっていた幅広い活動について、アーレントは知らなかった。
本書はアイヒマンという人物の、今迄知られていなかった側面を明らかにする。
アイヒマンは少なくとも凡庸な人物では無かった。
彼は充分な思考能力を備えた、筋金入りの国家社会主義者だったのだ。
この本の出現は、一つの事件である。アーレントによって確立されてきたアイヒマン像は、大きな変更を余儀なくされるだろう。
だが、アーレントの言う「凡庸な悪」の主張は、余り大きな変更を強いられはしないだろうと、私は考える。
アイヒマンは何はともあれ、自らの主体性が全くなかった訳ではないが、大きな権威に突き動かされ、大勢のユダヤ人を死に追いやった。その事実は何一つ変更されないだろうからである。
人は巨大な権威を前にすると、どこまでも恐ろしい犯罪に手を染めかねない。その教訓は今も生き続けている。