20130130

さもありなん

懐かしさからだけだったのだろうか?
それだけではなかったと感じているのだ。

前のエントリを投稿してすぐ、調べてみた。電子書籍化されているのでは無いか?
予想は当たった。

庄司薫の小説はKindle化されていた。

さもありなん。

庄司薫もサリンジャーも、電子書籍がよく似合う。


予想が外れたのは、私としてはシリーズの中で最も印象的だった『白鳥の歌なんか聞こえない』がまだKindle化されていなかった事だ。4作品が全部Kindle化されていると思っていた。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』

『さよなら怪傑黒頭巾』

『ぼくの大好きな青髭』

ダウンロードし、『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読み始めた。
読み始め直前、感じたのは記憶のなさ。内容を殆ど覚えていない。

読み始めてすぐに幾つかの記憶は蘇ってきた。エンペドクレスのサンダルの話。「舌噛んで死んじゃいたい」由美。それらに私はいちいち憧れていた。

中学生だった私には分からなかった事が幾つもあった事にも気付かされた。

例えば、「ボート乗るのに千鳥ヶ淵と弁慶橋とどちらがいいか」と言った設問がいかにどっちでもいいものであるか等に関しては、東京育ちで無いと分からない(笑)。


意外と(と言ってしまうのは却って失礼かも知れないが)筆力があるのには驚いた。単なるサリンジャーの傍系。中学生私はそう断じていたからだ。それだけではなさそうだ。


中学生の頃は、福田章二の名前で書かれた『喪失』の方が好きだった。だが、若さというものを軽々と戯画化する筆力は、明らかに庄司薫の方が上だ。当時は四十男がこの文章をものにした事が驚きだったが、むしろ若い時代には『喪失』が相応しい。距離の置き方、熟成度合い。どれを観てもこのシリーズにはそれに相応しい年齢が必要だと分かる。

これだけ書ける人が、何故筆を執らないのだろうか?
その事がむしろ不思議だ。

書きたくならないものだろうか?

薫くんシリーズは、時を超えて存在を主張出来るような「文学」ではない。高校に「革命派」がいるという想定。彼らが出会い頭にベーテーをどう思うか訊いてくるという設定。
それらにリアリティを感じられる高校生がどれだけいると言うのだろうか?

だがしかし。だ。

石森延男を読んで、児童文学というものが必要な存在である事を再び確信した。それらは所謂文学とは異なる存在だが、ひとりの人間が成長するに当たって、欠かす事が出来ない要素のひとつを形作っていると思う。

薫くんシリーズは明らかに青春小説であり、私は今、青春時代を過ごしてはいない。だが、と言うのかむしろと言うのか、青春小説という存在もまた児童文学と同様に必要な要素のひとつだと感じさせられた。


石森延男からすぐに庄司薫へ。

こうやってみると私も存外順調に成長してきたのでは無いだろうか?


中学生の頃『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読み、ゲーテが「古典派」として軽く扱われている部分に腹を立てた。その感覚も思い出した。その感覚は未だにそのまま残っている。その事にも気付かされた。読んで、また腹を立てたのだ。

私は作中の庄司薫でも作者の庄司薫でもあり得ず、「鼻持ちならないエリート」とはまるで縁がない俗物だが、子どもの頃からいつも身辺に古典があった。その事は幸運だったと思っている。一瞬もそれを恥だと感じた事はない!
と、いきり立って考えてしまう程、私の人間関係は単純だった。

私の周囲には「革命派」も「芸術派」もおらず、…ん?私自身が最も「革命派」であり「芸術派」であったかも…と思える程平凡な高校生活を送る事が出来た。

平和だった。それで良かったと思えるのだ。

尤も、殆どの庄司薫読者は、「鼻持ちならないエリート」とは無縁の、どちらかと言うと「芸術派」の、ちょっと庄司薫を下に見たがる層だったと思うのだ。それを十分意識して、本来「芸術派」の福田章二は、自身を戯画化して、庄司薫となって私たちを逆に弄ぶ手段に出ていたように思えるのだ。

いずれにせよ私は中途半端な若さに翻弄されていた。もっと自分を対象化して見る事はできなかったものか?今になってそう思う。折角庄司薫も読んでいた事でもあるし。

そうでなかったら平和を十分に享受すべきだったのだ。
例えそれがその当時には耐えられない程、苦悩に満ちたものであったにせよ。だ。

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