実直な研究者なのだろう。その人柄が文章から溢れ出ている。
著者は言う。
私たちはみな、資本主義という恒常的な災害の被災者である。
資本主義は、単なる経済体制だけではなく、一つの災害なのだ。
副題にあるパンとバラは1912年ローレンスで行われた移民労働者による大規模ストライキ「パンとバラのストライキ」から採られている。なぜそのように呼ばれるようになったかについては諸説あるようだが、ストライキに参加していた女性が掲げていたプラカードのメッセージ「パンをよこせ、バラもよこせ!(We want bread and roses, too!)に由来すると言われる事が多い。パンは生きて行くために必要な「生活の糧」を指し、バラは「尊厳」を指している。言葉も通じない中、過酷な労働条件で働かされていた移民労働者にとっては、単に「食っていける」ことだけではなく、「尊厳」を損なわずに働き、生きることもまた、重要な要求だったのだ。
このストライキの模様は、常に労働者や移民の暮しに光を当てて作品作りをしてきた画家、Ralph Fasanellaによっても描かれている。
そこには、ストライカーたちを取り締まるために整列している警官や民兵が退屈な単色で描かれている。対照的に抗議のために広場に出てきた労働者は、今にも歌い、踊り出しそうなほど活き活きとカラフルに描かれており、様々な出自をもつ移民労働者たちの交差が美しく表現されている。
本書はIパンとバラのフェミニズム、II個人的なことは政治的なこと、IIIジェントリフィケーションと交差性の3部に大きく分けられており、それぞれが短い章立てで構成されているため、とても読み易い作りになっている。
どの文章も生きて行くために重要な概念が、幾つも言語化されており、読み応えがあるが、著者の本領が発揮されているのはII部とIII部だろう。そこからは、著者の息遣いが直接伝わってくるような迫力が感じられる。
I部ではCOVID-19のパンデミックに触れている。
著者はこのパンデミックを
この数十年の間、やはり世界中に蔓延してきたネオリベラリズムの滑稽さ・くだらなさ/欺瞞(ブルシット)であった。
と総括する。
パンデミックと見做される水準に到達するほどに感染が拡大し、多くの国が医療崩壊の危機を迎え、2021年6月末時点で400万人近くの死者を生んでしまったのもまた、ネオリベラルな資本主義がこの数十年の間に医療やケア、公衆衛生(コモンズ)の仕組みを破壊し、切り詰めて来たことの帰結である。私たちが実際に直面している「危機」はCOVID-19によるものというよりは、元来グローバル資本主義ないしネオリベラリズムという災厄によるものである。
紙が好きだ。それを束ねた本はもっと。
という筆者は、16歳になって一人暮らしを始めた横浜で、ニーチェと路上生活者とに出会う。それが著者の人生を決定付けた。
彼ら(路上生活者)には何もなかった、まともなシゴトもカネも安らげる家もあらゆるものを奪われて(あるいは、ときに自ら捨てて)路上を生きている。しかしそれは「失うものが何もない」という無産者固有の「強さ」を生み出してもいた。今思えば、私が路上に通い続けていたのは、そうした「強さ」に魅かれていたからだと思う。
しかし、大学院で「ホームレス調査」に参加し、ホームレスへの聞き取り/インタビューを通して彼らの生活実態や福祉制度との関わり等を明らかにしようとする。著者自身もいつくかの聞き取りを行なった。けれども、調査の報告書で筆者が執筆を担当したのはそこで聞き取った「ホームレス」の「声」の「分析」ではなく、地域に暮らす「市民」から行政に寄せられた「ホームレス」に関する「声」の分析だった。ある「市民」の「声」が、「ホームレス」は「市民」なのか?という問いに対する端的な答えを与えてくれていた。─「ホームレスのせいで市民は危険に晒されている」。この「声」から読み取れることは二つある。一つはホームレスは市民ではないということ。そしてもう一つは、ホームレスは単に市民でないばかりでなく、市民を「危険に晒す」ような敵対的な存在、すなわち「脅威」として認識されているということである。
筆者にとって、聞き取った「声」を基に論文を書くということの困難は、なによりもまず、筆者自身が路上に「通って」いただけで、そこに暮らしていた訳ではない、という事実に由来する。
筆者はそんな人間が路上で暮らす人たちに「ついて」書くこと等できるわけがないと述懐する。
研究者は、いかにももっともらしい「調査」を通して、ただ自分が聞きたい「声」を「聞く」のみである。そうして、「調査」を立ち上げカネ(研究費)をとり、それを自分たちの「業績」にしていくという行為が、彼らの存在と、その「声」を「業績」のために消費しているようで、あさましく感じられたという。
筆者にとって、彼らについて「書く」ということは、筆者と路上の友人との間に「書く」者と「書かれる」者との非対称性をはっきりと生じさせるだけでなく、彼らを物理的に「殴る」ことと同等の暴力であり、とても受け入れられなかった。
筆者はIII部でジェントリフィケーションに言及する。
ジェントリフィケーションとは1964年にイギリスの社会学者ルース・グラスが編み出した概念で、資本の「再開発」によって都市の貧困地域の地価が高騰し、その結果貧困層が都市を追われるという現象を指す。ジェントリフィケーションとは、決して階級的にニュートラルな再編過程ではない。それはむしろ、階級的対立を背景に労働者階級の文化・生活・地理を、ミドルクラスのそれに置き換えようとする暴力なのだ。
要するに「開発」とは、その始まりからあまりにも家父長的なのだ。
本書を読み終えて、私は筆者の誠実な言葉たちに対し、どう応えていったら良いのかが分からず、深い悩みに突入してしまった。今の私の生き方は、あまりに不誠実ではないのか?いや、不誠実そのものだろう。そこから抜け出すにはどうしたら良いのか?またはそこに開き直って居座り続けるのか?そのどちらも選び取れない自分の無力さに、しばらく打ち沈んでいた。
本書は筆者堅田香緒里の初めての単著だという。この本との出会いは強烈な印象を私に残して行った。この筆者にしばらく注目して、孤独な対話を続けたいと、今思っている。
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