総合的、包括的なオリンピック批判の論考である。
COVID-19蔓延の中強行された東京オリンピックは、オリンピックそのものが抱える様々な矛盾をかえって明らかにした。だが、本書に示されるような、その矛盾を体型的にまとめ上げた論考は、今迄見当たらなかったのではないだろうか?
本書は筆者ヘレン・ジェファーソン・レンスキーの20年に渡るオリンピック批判の到達点を示すものだ。
筆者はオリンピック批判の中心として、オリンピック産業という概念を据える。オリンピック産業は、スポーツ例外主義(スポーツは「特別なもの」であり、地域的、国家的、国際的な「政治」に汚染されるべきではないとする考え方)を取り込み、IOCが自称する「世界のスポーツの最高権威」という地位を築くことで、人体と心にダメージを与えるようなスポーツ実践を一世紀以上に渡って世界的に形作って来た。IOCと近代オリンピックは時代の産物であり、19世紀の植民地主義、人種差別主義そして性差別主義の起源は未だ消え去っていない。スポーツはオリンピック産業の氷山の一角に過ぎない。表面を捲ると、その裏にはスポンサー、企業、メディアの権利保有者、開発業者、不動産所有者、ホテルやリゾートの所有者などがおり、全てオリンピックの開催によって経済的利益を得る態勢を整えている。
このようなオリンピック産業の概念は、従来巧妙に隠されてきたが、もはや誰の目にも明らかになり、この概念を疑う者はもはや存在しないと言って良い。
本書によると、フランスの貴族であるピエール・ド・クーベルタン男爵は、近代オリンピック創設の父とされており、非ヨーロッパ人を文明化し、植民地化する道具としてスポーツを取り込んだ事は明らかだ。オリンピックを復活させるという彼の計画は、近代ギリシアの文化を取り入れるという当時の流行にマッチし、1896年にアテネで最初のオリンピックがうまく実現できるようその舞台が整えられた。アフリカ人の参加について、クーベルタンは「スポーツはアフリカを征服する」と述べ、「スポーツの植民地化とスポーツによる植民地化」を宣言した。
1936年、アジア諸国からのアスリートがより多く参加するようになると、彼は次のように述べて熱狂した。
オリンピックのアジア到達は大きな勝利だと考えている。
オリンピズムに関して言えば、国際的な競争は必ず実りあるものになる。オリンピックを主催する名誉を得るのは世界の全ての国にとって好ましい事だ。
クーベルタンの狙いはIOCが世界のスポーツに対してその権力を維持する21世紀になっても実現され続けている。オリンピック憲章は、ガバナンスの基本的原則を次のように定めている。IOCメンバーは「各国におけるIOCとオリンピック・ムーブメントの利益を代表し、促進する…」。
筆者の分析・批判は多岐に渡るが、後半2つの章を費やして語られる、キャスター・セメンヤを始めとするDSD(性分化疾患)規定を巡る論考は圧巻だ。
より速く、より高く、より強く、というオリンピックモデルによって、性別・ジェンダー・セクシュアリティの問題は、二元論的思考が抜き難く定着してしまった。競技スポーツを完璧な男女のカテゴリーへ編成したことは、体形とスポーツパフォーマンスにジェンダーに関連した差異があることの視覚的で象徴的なエビデンスになっているのだが、それが単に社会の規範を反映するレベルを超えているのだ。
2009年以降、欧米白人の思い描く女らしい姿に沿わない女性の陸上選手がスポーツ運営組織によってスティグマを与えられ、貶められる出来事が続いた。
つまり筆者レンスキーは本書の分析を通して、オリンピックにおけるDSD規定の問題は、性差別的であると同時に人種差別的である事を明らかにしているのだ。
TOKYO2020は強行されてしまった。そして、オリンピック産業に群がる人々が権力を握っている限り、今後もオリンピックは開催され続けるだろう。
だが、明らかな事に、オリンピックはもはや、スポーツを通して行われる平和と夢の祭典では無くなってしまっている。
オリンピックは今、大きな曲がり角に差し掛かっている。
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