20211009

条件なき平等

 読んでいる途中、そして読み終わってからも、何度か微妙な気分に陥った。

世界経済フォーラムが今年3月に発表したジェンダーギャップ指数では、日本は153カ国中121位だった。これは先進国の中で最低レベルにある。

翻って著者セナックのフランスは16位。

圧倒的な差がある。

だが、この本におけるセナックの意図は、フランスが平等の国であるというのは神話に過ぎないことを、共和国のスローガン「自由・平等・博愛」の再検討を軸に論証するところにある。


セナックの目指すところのものがあまりに高く、彼我の差に改めて愕然とさせられてしまうのだ。

本を開いて、冒頭のエピグラムから驚いてしまった。ヴォルテールと言えば、自由を信奉し『カンディード』などで奴隷制を告発した思想家だと思い込んでいたので、「こうした取引はわれわれの優位性を示している。主人に仕える者は、主人をもつために生まれついているのだ」と言った、あたかも奴隷制を容認し、黒人を差別するような文章を書いたとは、俄に信じられなかったからだ。またフランスの有名文化人らしいラファエル・エントヴェンとか、歌手のメネル・イブティセム、オレルサンなど、日本では余り知られていなかった名前が出てくるかと思えば、ジャン・ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ピエール・ブルデュー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ロラン・バルトなど現代の有名な思想家は勿論、『21世紀の資本』のトマ・ピケティまで引用されている。流行作家のミシェル・ウェルベックも登場する。ジョン・ロールズやナンシー・フレイザーなどフランス以外の欧米の学者の名前も並んでいる。

情報量が多過ぎて、浅学な私には消化し切れないのではないかと危惧した。

セナックはフラテルニテ(友愛)という言葉を問題にする。それはフラテルニテが含意しているのは「兄弟たち」の友愛であって、そこからは「兄弟ではない者たち」─女性だけでなく、女性・男性のどちらにも区別されない人たちや、白人ではない「人種化された人たち」─が排除されているからだ。

セナックは「社会的マイノリティ」に対する差別という観点から「人は潜在的に差別の原因となりうる複数のアイデンティティの交差点(インターセクション)に存在している」事、即ち性別、人種、そして社会階級といった社会関係に照らして、差別の基準がどのように関連し合っているかを考察している。

本書を読むとフランスもまだ、全然平等でない国のように思えてくる。何故か?それは平等に関するセナックの第二の問い「どんな平等か?」とも関わっている。

本書のタイトル『条件なき平等』が表しているのは、集団としての特異性の中に閉じ込められる事なく、集団としての特異性によって「補完的に」割り振られる事なく、そして社会に収益をもたらすという「条件なし」に一人ひとりが同類として平等であるという事だ。

「人間として、全ての人が同類となることこそは、一人ひとりの特異性を平等に開花させることができるための条件である」とセナックは結論している。

その為にはどうすればいいのだろうか?まずは「フランスは平等の国であるという神話」から解放されて、平等ではない現実に気付くことである。その上でセナックは具体的な方策として、アファーマティブアクションや非・混在を真の平等にたどり着くための「一時的な」手段として容認するという、本書の大胆かつ辛辣な論法からは意外なほど柔軟なスタンスをとっている。

条件つきの平等すら実現していない日本においては、セナックの考え方は先鋭的過ぎると感ずる読者もいるかも知れない。しかし、セナックが呼びかける挑戦、「人間の多様性が、疎外を招くような個別化へと変化することなく、女性も男性もすべての人がどの人も同類として認められ、同類として生きることを可能にするという挑戦」には同感できるだろう。本書はフランスでの議論なので「兄弟=白人男性」「兄弟ではない者たち=非・男性、人種化された人たち」が問題になっているが、この構図はフランスだけではなく日本にも当てはめて考えることができる。そこにどういった人たちが歴史的、社会的に当てはめられて来たのか、当てはめられようとしているか、私たちには考える義務があると強く感じる。

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