20071128

灯油を買いに行きながら

目の前に灯油を売って下さるお店があるという事だけでも、大変重宝している。灯油を買いに行く為に、わざわざガソリンを消費しなくて済む。
先日捻挫した左足首はまだ少し痛む。重いものを持つにはやや辛い。けれど灯油は日々、消費してしまう。そうしないとやわになったわたしは、満足にキーボードで文字を打つ事もままならぬ。

一昨日、昨日に比べ、今日は更に寒い。予報では5日か6日にはもっと冷え込むらしい。4日には雪の予報も出ている。丁度昨日灯油を使い切ったので(体力的に、精神的に、そして何より経済的に…)思い切って外に出る。

「あっ!」と思わず声を上げそうになった。灯油が昨日より3円値上がっているではないか。

1ℓあたり3円という事は18ℓでは…。などと無駄な暗算をしながら横断歩道を渡る。

ずしっと重い灯油を持って帰る時、今月の医療費の事など、また無駄な算段をしながら信号を待つ。

昨日、久し振りにかなりの数のBlogを読む。
幾つかのBlogで石油高騰の事が触れられ、幾つかのBlogでは社会情勢が語られていた。皆様怒ったり、嘆いたりしていた。問題提起や提言をなさっている方もいた。

皆様偉いなぁ…と思うのだ。
わたしも少し社会問題など取り上げて、このBlogにも「社会性」を持たせねばいかんかな?
正直に言うと真剣に悩んだ。

石油高騰についてもその原因分析や、そうした情勢の意味するところが様々な視点から語られていた。

確かに貧しい生活をしていると、その中から無理してお金を絞り出して灯油を買いに行く、そのお金が、投資という名のギャンブルの寺銭に流れているのか!と思うと、面白くはない。

養老孟司さんは経済のグローバリゼーションを落語の『花見酒』が世界規模で行われているものと言っていた。説得力があった。

だが、今日感じた事は、そうした分析から下された感情ではなかった。少なくともなかった筈だ。

灯油を買いに行ったら高価くて驚いた。だが、他に買いに行くより総合的に判断すると安く済み、このお店が潰れてしまうとそれも困るので「ここ」で「灯油」を買う事を決定した。それだけの事なのだ。

そのお金がどのように流れ、どのように使われるのかは、極論を言ってしまえば「知ったこっちゃねぇ」(…『花見酒』は早くやめろよな。危なっかしいから)。

東京で暮らしていた頃は、特に暮らし始めた頃驚いたのだが、我慢すれば暖房費を完璧に節約する事も可能だった。どうしようもなくなったら電気ごたつを買おうと思っているうちに春になってしまったのだ。

その感覚からどうも抜け出せずにいる。暖房費が必須である場所で、何故石油が高価いのか?

この設問が適切でない事は分かっている。供給が同じならば、需要が多ければその分だけ単価は高価くなる。これが経済の常識なのだろう。
そして、投資ファンドほどではないにしろ、日本に運ばれてくるまでに石油を使い、更に国内に到達してから、車で更に高騰したガソリンを消費して運ばれて来る。高価くて当たり前。

その常識がバブルという非常識な時期に大きく変わった事もうすうす感じてはいる。お金は遊び道具になった。
遊び道具で遊ぶ人が居る事にいちいち腹を立てていたら、世の中腹を立てる事だらけで人生の日が暮れる。その筋の勉強など始めたら、本を買う為に多分石油高騰以上の負担を強いられる事になるだろう。

それでなくともわたしの家には無駄に本が沢山ある。表に出ている本だけでも、これらを再読するには残りの人生全ての時間を費やして、足りるかどうか…?

にも拘らず、わたしはまだ、本を買う。更に買いたいと思っても居る。

はっきり言ってこれほど無駄な事はない。これらを知的投資と呼んでみた事もあったが、その投資が利益と共に還って来た事はない。ただ、出てゆくだけだ。
さして知的になったとも思えない。

本や音楽、そして科学で遊んで来た。それらの時代は頭の中では何故か非常に苦しい時代として記憶されているのだが、振り返ってみると面白い場所を沢山垣間見て来たとも思っている。
先日のように、思いもしなかったのに、ステージに上がらせて貰えるような、そんな人生だった(おいおい、何かわたし、既に振り返っているよ)。

わたしも遊ぶ。だから、誰が何で遊ぼうと、その事にいちいち文句を言う気にはなれない。

だが、お金で遊んでいる人たち。社会問題で遊んでいる人たち。何かが、どこかが、間違っているよ。と薄っすらとだが感じるのだ。

遊び道具は安全なものの方がいいに決まっている。
それ以上に遊んでいるのならば、遊びを遊んでいると自覚して、つまり腹を括って、遊んだ方が良い。

お酒は(殆ど飲まないのだが)美味しい飲み物だと思う。けれど悪酔いする程飲むのは迷惑だ。

何やら彼らには、妙な使命感がつきまとっている。その使命感とやらが、かつてのオウム真理教の事を思い出させるのだ。使命感の背後には弱かれ強かれ、絶望感が潜んでいる。

(この頃、足が痛くて少し実技の方がおろそかになっているが)ヨーガをやり始めて、オウム真理教の道場のような場所は、少なくともヨーガを真面目にやりたい人には、理想的とも言える場所だったのだろうな…。と、今迄とは異なった理解の仕方が出来るようになった。←参考:えこまさん『えこまの部屋』─「駆け込み訴えの悲しみ

彼らは(少なくとも幹部は)、何か知らんが世の中が「分かっちゃった」人たちだった。

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