これと言った著者を選んで、その全集を全巻読破する事にしている。
今回選んだのは須賀敦子。名エセーイストである。
かつて、彼女の全集は、文庫版で全巻持っていたのだが、引っ越しの折ブック・オフに売り払ってしまった。図書館に在庫があるのが、その理由だったが、今迄なかなか機会が掴めず、読まずに過ごしてしまった。
意を決して第1巻を借りて来た。
1985年から1996年にかけて発表された作品を収録した巻だと言う。
この巻の、中核を成すのは「コルシア書店の仲間たち」だろう。
須賀敦子さんがイタリアで過ごしていた期間、最も力を入れた活動のひとつ、ミラノのコルシア・デイ・セルヴィ書店を通じて出逢った仲間たちの話題が、愛情の籠った、詩的な文章で描かれている。
イタリアの文化を担う、一大拠点であろうと言う志があったのだろう。彼女の筆によって描き出される仲間たちは誰もが個性的で、人間としての魅力に溢れている。
コルシア書店に集まって来る人間達は誰もが、壮大な夢を抱いている。だが、そのコルシア書店の活動も、常に順風満帆と言う訳では無かった。
誰もが葛藤を抱え、時にぶつかり合い、悶着も起こす。だが、そうした負の経験ですら、コルシア書店と言う場を通して眺めると、独特の色合いを帯びて、浮かび上がって来る。
それはコルシア書店と言う場を共有する彼らが、何よりも、真実全力で生きているからであり、それを垣間見る私たちは、その姿につい感動を覚えてしまうからだと思う。
この巻の冒頭には、「ミラノ 霧の風景」と題されたエセーが掲げられている。ミラノに住む人々は、ミラノの霧の風景に誇りを抱いている。
ロンドンの霧など、ミラノのに比べたら影が薄くなると、認めていた。
霧の「土手」と言うのか「層」と言うのか「バンコ」と言う表現があって、これは車を運転していると、不意に土手の様な、塀の様な霧の塊が目の前に立ちはだかる。運転手はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。
今住んでいる土地でも、晩秋から冬に掛けて、かなり濃い霧が立ち込めるが、ミラノ程の濃い霧には、今迄立ち会った事がない。
そのミラノの霧が、誰もはっきりした理由が分からないまま、姿を消し始めているのだと言う。暖房に重油を使わなくなったからだと言う人もいる。あんな霧、無くなった方がいいですよと、ミラノに住んでいる日本人は言うが、古くからのミラノ人は何となく淋しく思っているのだそうだ。
第1巻の最後を飾るのは、「旅のあいまに」と題された、単行本未発表の、様々な知人を巡る思い巡らしだ。
須賀敦子さんは、人生の中で出逢って来た様々な人々を、ひとりひとり大事に扱って来たのだな。としみじみしてしまう。エセーで描かれる人々のひとりひとりを、彼女は実に愛情深く、描き出している。
これは単なるエセーではなく、詩だ。読み終えてその事を、深く納得した。

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