はっきりと憶えている。
‘79年の夏だった。私は妙に高揚した向学心に駆られ、西は島根県から東は丹沢山地迄のグリーンタフ地域を、闇雲に駆け巡っていた。
この年の経験が、後の私の人生を決めたと言っても大袈裟ではない。フィールドワークの充実だけではなく、その年に鳥取大で行われた地質学会で、タービディティー・カレントの実験を行った平朝彦さんの講演を、食い入るように見詰めていた。その事で、それ迄どちらかと言うと火成作用に傾きがちだった興味が、堆積学の方向に、大きく方向転換されたのだ。
私は日本全国のグリーンタフを叩き、記載し、考え、そしてまた歩くを繰り返していた。
当時の私は、矢鱈と体力があり、いくら歩いても、疲れるという事を知らなかった。山道を日速30km程のペースで、駆け巡っていた。
だが、嫌でも時は巡る。
私は後に自分のフィールドになる富士川流域の支流、福士川渓谷の調査を終え、ひとり身延線に乗り込んだ。
まだ冷房車など普及されている時代ではなく、富士駅に向かう上り列車の窓を全開にし、吹き込んで来る風の心地良さを全身で味わっていた。
井出駅を出発した後の事だった。
私は車窓から、大輪の向日葵が、その花を揺らしているのを見た。
その時、私は何故か、夏をではなく、夏の終わりを全身に感じ取ったのだ。
向日葵と言えば普通夏を代表する花であり、盛夏を感じても、何の不思議もない。だが、その時に全身を貫く様に、余りにも強く意識したのは、日本列島を駆け巡った’79年の夏が、今終わろうとしている、その事だった。
身延線の車窓から、一瞬だけ見えたその向日葵の姿は、何故か記憶に強く焼き付き、その詳細を、私は未だ明瞭に再現する事が出来る。
以来、向日葵は、私にとって盛夏の花ではなく、夏の終わりを告げる花となった。
向日葵の花は今年も咲いた。
今日も水銀柱はぐんぐんと上昇し、長野にも熱中症アラートが発令された。
だが、暦は知っている。今日は立秋。
本棚からアーダーベルド・シュティフターの『晩夏』を、そっと取り出した。
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