ソース焼きそばは私の得意料理のひとつに数えられる。
と言うより、ソース焼きそばは誰にでも手軽に作ることが出来る軽食として存在しているのだろう。焼きそばと言えばやはりスタンダードはソースであり、決して塩や醤油ではない。
ところで、そのソース焼きそば。いつから存在しているのだろう?
この本に出逢う迄、私はそんな事を意識すらせずに、当たり前に存在する料理として、ソース焼きそばを食して来た。
その謎に、敢然と立ち向かっているのがこの本である。
ソース焼きそばは大阪。それも戦後に誕生したという説をどこかで耳にした事がある。その説にも、本書は触れている。それによると、それは広く行き渡っている俗説であり、どうやら間違いであるらしい。
本書によると、ソース焼きそばの発祥を突き止めるのは、かなり困難な作業であった様だ。
筆者は、幅広い文献、詳細な聞き込みを軸として、時には大胆な仮説を交えて、この謎に挑んでいる。
それによると、焼きそばはお好み焼きの一種として、醤油ベースのソースを用いた、子ども相手の食べ物として誕生したらしい。それがやがて、安価なウスターソースを用いる様になり、現在のソース焼きそばに近づいていったものだと言う。
発祥については、決定的な文献は存在せず、聞き込みや状況証拠を積み重ねる事で、浅草の千束町にあるデンキヤホールと言う店で、大正初期から提供されていたらしいという結論に至る。
その結論に至る経過は、一流の推理小説を読む様なスリリングな筆致が冴える。
状況証拠として面白かったのは、日清製粉の前身である館林製粉が、群馬県館林市で明治33年に創業を開始するのだが、それが東武鉄道の開設とほぼ時を同じくしており、館林から浅草への小麦粉の運搬に大きく影響したと言う点だ。
ソース焼きそばに、小麦粉は欠かせない。その運搬の便が、浅草で整っていたと言う事実は、ソース焼きそば浅草発祥説に大きな傍証となる。
だが、ソース焼きそばが全国的に広まり、隆盛を誇る様になったのは、やはり戦後の事らしい。当初小麦粉は国産のうどん粉と、アメリカ産のメリケン粉に分かれており、メリケン粉は、輸入に頼るしか無かった。これが緩むのは、アメリカ産のメリケン粉に、関税が課される様になってからであり、特に戦後は、闇市を中心に、供給されていた様だ。
ソース焼きそば大阪起源説を否定する、ひとつの材料として、関西では、焼きそばの元になる中華麺がなかなか手に入らず、戦後も焼きそばではなく、焼きうどんが主流であったという事実がある。
本書によると、長野県は北海道と並んで、ソース焼きそばではなく、餡掛け焼きそばが主流な特殊な地方として挙げられている。あまり外食をしないので、詳しくは知らないが、以前住んでいた住宅の隣にあった中華料理店では、確かにソース焼きそばではなく、餡掛け焼きそばを提供していた。
筆者は、「焼きそば名店探訪録」と言うブログを公開しており、そこに筆者自らが足で訪ね歩いた全国の焼きそば、焼きうどんの記録が残されている。
東日本大震災で、東北の主だった焼きそば店が無くなって行くのに気付いたのが、このブログを始める動機だったらしいが、焼いた粉物に賭けるその情熱の半端なさは、本書でもブログでも遺憾無く発揮されている。
本書を読み終えた日、昼食にソース焼きそばを食べた。それはいつもの味の普通のソース焼きそばの筈だったのだが、本書で様々な知識を得て、それを元に味わうと、ソース焼きそばが経験してきた100年の歴史が、我が家にたどり着いたような気になり、格別の味わいを持っているような気がした。
面白い本だった。
0 件のコメント:
コメントを投稿