孤独には強い方だ。そう思って生きて来た。
学生時代は、独りで安下宿に沈殿し、地質学の勉強や、楽器の練習に勤しんでいた。それらは、安易な友人関係に流されるより、孤独を飼い慣らし、むしろ愛していなければ、到底実現出来ない、自己鍛錬だった。
今でもやりたい事は幾つも抱えている。私には孤独な時間が何よりも大切なものだと確信すらしていた。
そんな私がこの本に手を出したのは、この本の原題が “A Biography of Loneliness”直訳すれば「孤独の来歴」と記されていたからだ。
孤独について語る本を、孤独を愛する私が読んだらどんな感想を持つのだろうか?そこに興味があった。
日本語で孤独と訳し得る英語は幾つかある。
ひとつはこの本で主に採り上げるloneliness。他にはoneliness, solitude, isolationなどが挙げられるだろう。
それではlonelinessとsolitudeはどう違うのか?
改めて考えると即答は困難だ。
この本でもlonelinessを孤独、solitudeをソリチュードと訳している。
本人が望まない、主観的に欠落感や喪失感を伴うものをlonelinessと定義しているようだ。
そう考えると、私が飼い慣らし、愛して来た孤独なるものはlonelinessではないようだ。むしろただひとりでいることを意味するonelinessの方がしっくり来る。もしくは正しい意味でのsolitudeか?
私が孤独に対して、超然としていられたのも、私が孤独つまりlonelinessを経験した事が無かったからだとも言えるのではないか?
Lonelinessという言葉の歴史は、この本によるとかなり浅い。それが前景化されるのは、少なくとも19世紀を待たなければならない。
そしてその概念はジェンダーやエスニシティ、年齢、社会的経済的地位、環境、宗教、科学などによって異なる経験であるとされる。
私は今、妻帯者であるが自分の子どもはいない。もし仮に、女房殿に先立たれたら、私は即孤独な状態に陥るだろう。
もはや音楽や地質学は、私の人間関係を保つものではなくなっている。私はそれでも孤独に対して、超然としていられるのだろうか?私が愛した孤独solitudeについても、この本は1章を費やして、論じている。孤独が贈り物(ギフト)である場合もあるが、それは、その孤独が自分から望んだものであり、一時的なものであるからだと記している。
安下宿に沈殿して没頭していた地質学や音楽は、やがてそれを用いて、人間関係を形成する事が可能な営みだった。そこには欠落感や喪失感はなく、むしろ充実感があった。私が愛して来たのは決してlonelinessでは無かったのだ。
孤独の解消の手段として、ソーシャルメディアがより大きな役割を果たすだろうという指摘は当たっていると思う。
2018年一月、イギリスのメイ政権は、孤独担当大臣まで設置した。
孤独(loneliness)という病理はもはや、社会問題として認識された、一大課題にまでなっているのだ。
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