20240123

魂の秘境から

石牟礼道子最晩年のエセーとも日記とも判別が付かない遺作。だがそこには彼女の確かな肉声が響いている。

そしてその肉声は、ひと作品毎に挿入されている芥川仁の写真と響き合い。書物自体が作品である様な、見事な著作に仕上がっている。

石牟礼道子は2018年2月10日に逝去されている。本書には、著作の掲載された日付が付されており、最後の作品には2018年1月31日と記されている。本当に最後の最後迄、石牟礼道子は著作に取り組んでいたのが分かる。

そして驚くのは、その作品の質が、最後迄極めて高い水準を保っている事だ。文章に衰えは全く感じられない。

それは折に触れ描かれる子ども時代の回想に迄及び、90歳という年齢を全く感じさせない鮮明さで、遠い過去の記憶が語られている。

それら幼年期の記載を辿ると、石牟礼道子という存在が、最初から異界に棲んでいたと思わざるを得ない不思議な感触を得る。


その感触は、近代を厳しく拒絶している。

「原初の渚」にはこうある。

海が汚染されるということは、環境問題にとどまるものではない。それは太古からの命が連なるところ、数限りない生類と同化したご先祖さまの魂のよりどころが破壊されるということであり、わたしたちの魂が還りゆくところを失うということである。 
水俣病の患者さんたちはそのことを身をもって、言葉を尽くして訴えた。だが「言葉と文字とは、生命を売買する契約のためにある」と言わんばかりの近代企業とは、絶望的にすれ違ったのである。

石牟礼道子が魂と書くとき、そこには深く透明な意味が宿る。決して軽々しい言葉ではない。

本書を読んでいて、あ、と思った箇所がある。

花に酔ったのだろうか。「椿の花になりたい」と思った。それは幼いながら切実ともいえる思いで、畑仕事の手を休めた母にはどうしても伝えたい。けれど、そう願うばかり、そのころのわたしの内には、言葉というものがまだ生まれていなかったのである。言葉の出ない歯がゆさというものを覚えたのは、その時のことであったろうか。

彼女の最初の記憶なのだろうか?

その中に言葉の出ない歯がゆさと言う語句を発見して、私ははっとする。

石牟礼道子は生涯、その歯がゆさと格闘していたのでは無いだろうか?それ故に彼女が魂と書くとき、その語には魂が宿るのでは無いだろうか?

決して器用な書き手では無かった。『苦海浄土』を書き終えた時には、片方の視覚と聴覚を失っていたと聞く。石牟礼道子はまさに、全身全霊を賭けて、身を削りながら、数多の作品をこの世に産み出して来たのだと思う。私たちはそれ故に、彼女の作品から、途方もない深みと高みを授かることが出来るのでは無いか?

石牟礼道子の遺作である本書を読んでいて、彼女が最後迄、水俣病の事に触れていた事に、私は静かな、けれど強い感動を覚えた。石牟礼道子は最後の最後まで水俣病の作家であり続けたのだ。揺るがない、確かな、気高さがそこにある。

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