20231231

第一部『苦海浄土』

本を読む速度は遅い。だが、この作品は、意図的に、更に遅く、ゆっくりとしたペースを保って読んだ。


全集で読んでいる。石牟礼道子全集不知火では、この作品は、第二巻の第一部を構成する。今は第二部の『神々の村』を読んでいる。

通読してみると、『苦海浄土』は第一部『苦海浄土』、第二部『神々の村』、第三部『天の魚』の三部作であり、これらはどの作品も有機的に結びついており、一体化されている事が分かる。

なので『苦海浄土』という作品についての感想は、第三部『天の魚』を読んだ後になってから、ブログにアップしたいと思っている。

この文章は『苦海浄土』と言う、類まれな作品を読み続けている途中経過の報告という意味合いになる。

第一部『苦海浄土』を読むのは、これで三度目になる。最初に読んだのは、この作品が発表された直後の事ではなかっただろうか?

強い衝撃を受けた。

その強い衝撃は、今回、既に無い。告発だった水俣病の実態は、既知の事実となった。

その代わり、この作品の持つ、文章の美しさに驚いた。特に方言が美しい。

地質調査で天草は訪れた事がある。なので方言の持つ、イントネーションは何となく分かる。これは、とても幸運な事だと感じた。

そして、この作品が、水俣病の告発の書というだけではなく、水俣病を通して見通された、深い、魂の記録である事が、十分に感じられた。

水俣病は『苦海浄土』によって、その意味合いが途方もなく、深い物に掘り下げられたのだ。

石牟礼道子は、本書のあとがきで「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」と告白している。

本書は正確な意味での水俣病の「記録」ではない。石牟礼道子による創作が、ふんだんに散りばめられている。だが、その事は、本書の持つ価値を、少しも引き下げるものではないと私は考える。石牟礼道子の創作が散りばめられる事で、水俣病の実情が、底引網の様に過不足なく、世の中に報告されたのだ。

『苦海浄土』三部作を、全集で、通読するのは、今回が初めての事となる。読み終わって、私が、どの様な感想を持つのか、今から楽しみだ。

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