縄文時代に遡って想いを馳せるまでもなく、歴史的に妊娠・出産は宗教や呪術と密接に結び付けられて来た。というよりむしろ両者は歴史的に不可分な関係にあったと言える。ただし両者の関係のありようは徐々に変化し、近代化と共に、妊娠・出産は宗教や呪術から独立してきたと筆者は言う。
伝統的共同体においてその結びつきは必ずしも肯定的な意味を持ったものではなく、現代の感覚からするとむしろ否定的な意味を付与されることが多かった。
社会学者の波平恵美子は寺社の儀礼から女性が排除される事例や、神聖な空間に女性が立ち入ることがタブーとされた事例に着目し、それは妊娠・出産や月経がケガレと看做されていた為だと論じている。
だが近代に入ると妊娠・出産する女性の身体性に対する見方に変化が現れるようになる。特に月経の社会的位置付けが大きく変容した。その理由として生理用品の変化が挙げられる。
看護学者である小野清美は月経をめぐって現れた変化として、明治期にゴム製の生理用品が登場、普及したことに着目して、月経が個人で処理できるようになった生活の変化について言及している。
こうして妊娠・出産する女性の身体は、伝統的共同体に管理されるものから、個人で決定、管理したり、病院のような専門機関に管理されるものへと、徐々に移行していった。
この変化は妊娠・出産する女性の身体性が宗教から分離し、独立する過程でもあったと言い換える事ができるだろう。
また、妊娠・出産を女性個人のものとした流れにおいて、フェミニズムの影響を見落とすことはできない。特に「産む、産まないは女が決める」というスローガンを掲げた運動は、そのひとつであると言えるだろう。日本でのピル解禁をめぐる論争や、中絶を含む妊娠・出産の選択をめぐる論争も、女性の妊娠・出産やその身体性に対して大きな影響を及ぼした。
特に1994年にカイロで開催された国際人口開発会議で「リプロダクティブ・ヘルス&ライツ」が採択されたことは大きな出来事であった。なぜならこの宣言は、生殖に関する女性の健康と権利を重視するもので、妊娠・出産は女性が決めるものだという主張が盛り込まれていたからである。
1970年代以後に日本社会に出現したスピリチュアリティは、個人主義を重視しながらも、新たな形で宗教や宗教的なものをめぐるある程度まとまった世界観を提示してきた。「スピリチュアル市場」は、そのスピリチュアリティが、消費化や情報化が進む中で「市場」として形成されたものを指す。
ただし、妊娠・出産は「スピリチュアル市場」のなかで初めて宗教的なものと親和性を持ったのではなく、伝統社会では密接に関係していた。それが近代化とともに分離することで、女性が個人的に決定したり管理したりするものへと変化していった。
この社会は、妊娠・出産を経て子どもを持つことに伴う負担を女性だけに課し、常に決断と絶え間のない努力を女性だけに要求してくる。さまざまな困難を経て子どもを産んだとしても、子どもが健やかに成長し、豊かな未来が開けるという確かな展望を持つことができるわけではない。
こうした社会に子どもを産み出すという決断が、困難であればこそ、妊娠・出産が素晴らしい体験であることを願う女性たちの思いに、一層切実なものがあることは想像に難くない。スピリチュアリティはそんな女性たちの、妊娠・出産に対して、特別な価値や意味を付与するものとして現出したのではないだろうか。妊娠・出産が科学を基盤とする医療の管理下で行われる現代でありながら、スピリチュアリティと結び付けられる事情がここにある。
筆者は妊娠・出産のスピリチュアリティに関わるコンテンツについて「子宮系」と「胎内記憶」そして「自然なお産」という三つのトピックに分けて分析している。
「子宮系」は大きく「努力型」と「開運型」に分けられるという。最も多いのは、「努力型」だが、その特徴として運動やマッサージを行ったり、食生活を変えるなどの努力によって子宮の状態を改善することで女性としての美しさや健康を獲得することの価値が強調されている。「開運型」は子宮のありようの重要性を強調しながらも、妊娠・出産を経て母親となることを理想として掲げていない。むしろ、子どもを産んだとしても、母親として生きることからの圧力から自身を解放することが重視されている。
「胎内記憶」とは、生まれる前から子どもが持つとされる記憶のことで、母親の胎内にいた頃だけでなく、子ども自身が「かみさま」と相談して母親を選んだ記憶や、神秘的な体験をした記憶を語り出すというものである。
「胎内記憶」は全く新しいコンテンツというわけではない。2000年代に入って「胎内記憶」が広がる以前から、胎教との関わりで「胎内記憶」は取り沙汰されてきた
胎教とはまだ子どもが母親の胎内にいるうちから働きかけて、その成長を促すという教育ないし養生法のことを指す。胎児のうちから教育的に働きかければ、胎児の知能を高め、倫理や道徳、人間性を育むのに有効だと考えられている。
さらに注目したいのは、「胎内記憶」を信ずる姿勢は、次に述べる「自然なお産」の重要性を強調する姿勢と結びついていることだ。
「自然なお産」を重視する言説は、産科医療の領域で既に1970年代から見られたことである。なぜなら「自然なお産」はニューエイジ運動・文化とフェミニズムとが交差した地点において盛んになったからである。
ニューエイジ運動・文化の領域からは、妊娠・出産への医療の介入に対する反発が生じて「自然なお産」が興隆するようになった。フェミニズムが関係しているのは「自然なお産」が男性中心の医療体制において妊娠・出産が組み立てられてきたことに対する異議申し立てでもあったことと関連している。それが日本の産科医療にも影響を及ぼすようになった。
単純に考えれば、妊娠・出産とスピリチュアリティの親和性が高くなるの連れて、世俗化を促すフェミニズムがそこから排除されるのは自明だと言えるかも知れない。しかし、なぜ、そしてどのようにフェミニズムとの距離化が促されて来たのかについては、一度立ち止まって精査しておく必要があるのではないだろうか?なぜならフェミニズムとスピリチュアリティは必ずしも相反する関係にあるわけではなく、実際欧米では両者が融合している場合もあるからである。
世界的にも、また日本においても、女性の身体についての権利を主張し、尊重する道を切り開いたのは間違いなくフェミニズムの功績である。にもかかわらず、日本社会では妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティからフェミニズムが切り捨てられたのはなぜだろうか?
また著者は「スピリチュアル市場」における妊娠・出産のコンテンツには、男性の存在感が希薄であると指摘する。そのことは家庭を維持していく上で重要なパートナーであるはずの男性に対する期待の薄さを示唆するものである。「家庭」が家父長制の復古ではなく、女性が〈母〉としての役割を全うするための枠組みとして示されているのはそのためである。男性は女性が〈母〉として生きる「家庭」を構築する上で役立つ限りで期待されるに過ぎない。
この事実は自らが蒔いた種によるものとは言え、やはり寂しいものを感じた。