20151125

『断片的なものの社会学』

不思議な本だ。何一つ主張していない。しかしその文章は、どこか人を捕らえて離さない魅力に満ちている。
岸政彦『断片的なものの社会学』を読んだ。路上のギター弾き、元風俗嬢、元ヤクザ…。様々な人が登場する。様々な人生が語られる。それを丹念に描写している。だがそれらのどれひとつとして、そこに教訓めいた、深い意味を見出すことは出来ない。

著者岸政彦が社会学者としておこなっている個人の生活史の聞きとり調査からこぼれ落ちた、分析からも解釈からも拒絶されたようなエピソードが、ありきたりな、たわいもないものとして語られている。

冒頭付近で子どもの頃の著者の「奇妙な癖」が記されている。路上に転がっている無数の小石のうちひとつを拾い上げ、何十分かうっとりとそれを眺めていたという。

広い地球で、「この」瞬間に「この」場所で「この」私によって拾われた「この」石。そのかけがえのなさと無意味に、いつまでも震えるほど感動していた。

それぞれの人生は、著者が子どもの頃、たまたま手にとってしまった事によって特別なものになった「この」小石のように、たまたま出会ってしまった「この」人生なのだ。

世の中は無意味な欠片の集積から出来ており、私たちもまた意味のない、断片的な欠片の集積である。言っている事をひとことでまとめたらそう言う事になる。だが、それを声高に主張している訳でもない。著者は淡淡とその断片的な欠片を記載している。

それらは誰にも隠されていないが、誰の目にも触れないものとして記されている。


マジョリティとはどんな存在か?
それについて思い巡らせる文章がある。

多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」ということである。

例えば「在日コリアン」としての経験があるとする。その他方に「日本人」としての経験があるのだろうか?そうでは無い。あるのは

「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。

それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人びとなのである。


だからこそマジョリティの人生は誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない。

ならばマイノリティが普通になるとは、どの様にして達成出来る事柄なのだろうか?
自分の出身を隠してずっと生きると言う事はそれ自体とても困難な辛いことであろうし、そもそもそれ自体が常に「自分とは誰か」という問いを絶え間なく問いかける契機となることだろう。


もうひとつ、時間についての思い巡らしが、私の印象に残った。

私たちは、時間を意識しない状態を「楽しい」、時間を意識させられる状態を「苦しい」といって表現しているのかもしれない。

はっとした。

私たちは本を読み、音楽を聴いて生きているが、それらの営みの殆どは、時間を潰すこと。つまり時を数える様な生き方から逃れる為に行っている営みなのではないだろうか?

部屋には膨大な数の本が本棚にひしめいており、その横にはこれまた膨大な数のCDが並んでいる。

これらは私が生きている限りに於いて意味を持つが、私の存在がなくなれば、処理に困る単なる無意味なゴミの集積としてしか扱われないだろう。

そもそも、私という存在はそれ程意味のあるものなのだろうか?


本やCDという欠片の集積の中で、私という欠片の集積が生きている。


しかし、そのありきたりさの語りに触れる度に、私たちは胸がかきむしられるような、いとおしさを感じもするのだ。


私たちに許されているのは断片的な欠片の集積の前で、ただ戸惑うことしかないのかも知れない。


私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。

20151122

『近代科学再考』

出会うのが2、30年遅かった様に思う。大学に在籍していたときこの本を読んでいたら、もっとのめり込めたかも知れない。
今私は自然科学から少し距離を置いたところで生きている。
それ故、科学と社会の関係やその歴史について、それ程切実な問題意識を持てずにいる。かつてそれと深く関係したことがある分野。現在の私にとって科学とはそうした存在になっている。

しかし、自然科学は私にとって大切な分野である事は変わりがないだろう。
未だ、地質学の発表などを見聞すると、知らず知らずのめり込んでいる自分を発見することがある。私は本当に地質学が好きだったのだと、自覚する瞬間だ。

何故地質学を続けることが出来なかったか。それを語る事はブログではとても手に負えない問題だが、地質学を使って生きて行く事が、原子力発電所の新増設に荷担することとイコールであった事を無視して語る訳には行かない。

原発産業の落とす金は地質学をも飲み込み、活断層の研究や地盤工学などを生業とする地質コンサルタントなどは、その下請けの形で仕事を貰っていた。

その事で随分私は悩みもした。

その事を思い返しても、やはりこの本ともっと早く出会っていたら、と思わざるを得ない。この本には科学が制度となり、そして体制の一翼を担うようになった過程について、そして、日本の大学理学部の歴史が詳しく語られているからだ。

もっと早く出会っていたら、地質学と原発の問題、つまり科学の体制化の問題などを、より広い見地から考えることが出来たかも知れない。


この本、廣重徹『近代科学再考』は彼が近代科学について書いた4つの文章から成っている。

丁度社会に対する学生の叛乱が起きていた'60年代後半から'70年代にかけて書かれた文章を彼の没後にまとめた本だ。

社会に対する異議申し立ては、核兵器や公害などを生んだ自然科学そのものへの批判も含んでおり、それは時に反科学論として噴出したりもしていた時期だ。

廣重徹はそれらの運動に理解を示しつつも、

そこでいっきょに反科学と非合理に身をまかせてしまうのは、科学に未来をまかせてしまった未来学の流行と同じ軽薄さを逆向きに繰り返すことになろう。

と批判している。

'60年代に世界的な科学技術振興ブームがあり、当時の反科学論はそれへの反発という側面があったのだ。

現在はどうか?

ノーベル賞などで日本人の受賞者が出ると、一瞬、科学はニュースになり、耳目を集める。だがかつてあった科学への信仰心は、正直言ってどこにも見られないように思う。子どもや若者は科学に過度の期待を抱かず、理科離れとして静かに科学に背を向けている。

理科系の大学を選択して進学した若者たちは、金の卵のように大切に扱われ、それぞれの分野ごとの閉鎖的な社会に安住してしまい、自分の選択が社会的にどの様な意味を持つのかといった疑問を抱くことなく、過ごしている。

この本に書かれていることの重要性は、一見浮世離れしているように見える科学も、社会的な現象であり、戦争を含めた世の動きとしっかり連携とって発展してきたことを、豊富な実例を挙げて論証しているところにある。

物理学がルーチン化し、新しい学問的視野を開けなくなっていることに対し、

こんにちの科学を規定している社会基盤にまでつき進むするどい批判こそが何よりも必要

とする彼の結語は現代の科学者にとっても、未だ果たせていない課題として突き付けられている。


しかしよく調べられている。

ニュートンは古典力学をほぼ完成させた偉人として認識されているが、彼は彼の万有引力の法則、また、それを含む力学の体系を正当化する上で、それを神の働きに帰している事など、この本を読むまで全く知らなかった事実だ。

彼の考えによれば

神はいたるところに偏在している。空間とは神の感覚中枢にほかならな。神はこの感覚中枢において物体の運動を感知し、それが法則どおりに行われるようにガイドする。この働きが重力なのである。ニュートンはざっとこのような解釈を、たんなる比喩でなく、文字どおりに確信していた。

のだそうだ。


この『近代科学再考』は2008年に文庫化されたが、今はもう絶版になっており、古書で入手するか図書館に頼るしかない。
私は図書館から借りて読んだが、長野の県立・市立両図書館とも在庫がなく、相互貸借制度を利用してやっと手に取ることが出来た。

内容の深さと豊かさ、そして何より必要性を考えると、余りに残念な現実だ。

20151112

『私の1960年代』

山本義隆という人物を語る上で、元東大全共闘代表という貌はやはり外せまい。その山本義隆が60年代をついに語るという。これは読まねばなるまい。
 勢い込んでこの本、山本義隆『私の1960年代』を読んだのだが、軽い肩透かしを食らったような気分に、途中で数回なった。

目当てにしていた68、9年の東大全共闘時代の話が予想より、遙かに少なかったからだ。

全体の1/3程だろうか。

その他は日本の大学制度や科学・科学技術の歴史の記述に当てられている。

彼は現在日本を代表する在野の科学史家であり、駿台予備校講師としての教育者でもある。そのバランスがこうした構成となって現れたのだろうか?と思った。

しかし内容は充実している。

中でもこの本の中に図として紹介されている当時のビラや、補注としてまとめられている若い頃の文章はどれも貴重な史料となっている。

驚くのは、記憶の確かさだ。

もう当時から4、50年が過ぎようとしている。

しかし山本義隆は当時の雰囲気や、重要な会議の様子・発言者・内容・意義などを、この本の中で昨日の事のように明確に語っている。

これは並みの記憶力だけで出来る技では無い。

当時、どれだけ考えながら事に当たっていたのか。そして、当時から現在に至るまで、どれだけこの事を考え続けていたのかを物語る証左だ。

さすがに60年安保は記憶にないが、68、9年は丁度私の思春期が始まる頃のことだった。それだけに私の人生の中でも、当時の運動は動かすことの出来ない、強い影響力を持った出来事として身体に染みついている。

当時、日本だけではなくヨーロッパで、アメリカ合衆国で、学生が反旗を翻していた。

それは一体何故だったのか?いかなる出来事だったのか?

そうした視点からこの本を読んでみると、多くが割かれている大学制度や科学・科学技術の記述も、大きな意味を持ってくる。

それを語らなければ東大闘争そのものの意味を語ることが出来ない事として、社会の大きな歴史があったのだ。


私としては68、9年当時、山本義隆は何を考えていたのかという興味からこの本を手に取ったのだが、そればかりか、どの様な経緯で現在の活動に移行したのかも理解出来た。山本義隆という人物の素顔の一端を知ることが出来たと思っている。

20151110

『帰還兵はなぜ自殺するのか』

この本、デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』には、戦争のもうひとつの貌が描かれている。
 兵士たちは英雄になって帰ってきたように見える。しかし目に見える身体的な損傷はなくとも「内部」が崩壊した兵士たちが大勢いる。妻たちは「戦争に行く前はいい人だったのに、帰還後は別人になっていた」と語る。

毎年240人以上の帰還兵が自殺を遂げている。自殺を企てた者はその10倍と言われている。何故帰還兵は自殺し続けるのだろうか。

その具体例がこの本に書かれている。

戦争は敵味方の区別なく、人間を破壊し続けるのだ。

この本はDavid Finkel: Thank you for your serviceの全訳である。

最初原題を読んだとき、意味が分からなかった。何の皮肉か?とすら思った。だが、読み終えて、著者は描かれた兵士は勿論、ベトナム戦争や第2次世界大戦で戦った兵士に対しても慰労と感謝の心を抱いているのだと言う事が分かった。

徹底した三人称で書かれている。その視線は客観的で深い洞察に満ち、鑑賞を排し、メランコリーもアイロニーもなく、著者の意見や展望が差し挟まれることもない。淡々と事実と事実だけを繋げ、人物と彼に顕れた現象に迫ってゆく。

主に登場するのはアダム・シューマン、トーソロ・アイアティ、ニック・デニーノ、マイケル・エモリー、ジェームズ・ドスターの5人の兵士とその家族である。

そのうちのひとりは既に戦死している。生き残った者たちは重い精神的ストレスを負っている。

彼らは爆弾の破裂による後遺症と、敵兵を殺したことによる精神的打撃によって自尊心を失い、悪夢を見、怒りを抑えきれず、眠れず、薬物やアルコールに依存し、鬱病を発症し、自傷行為に走り、ついには自殺を考えるようになる。

そうなったのは自分のせいだと彼らは思っている。

自分が弱くて脆いからだと。

いくら周りから「あなたのせいじゃない。戦争のせいなのだ」と言われても、彼らの自責の念と戦争の記憶は薄れることがない。

これは遠いアメリカ合衆国にのみ顕れている現象ではない。

日本でもイラク戦争支援のため、延べ1万人の自衛隊員が派遣された。
2014年4月16日に放送されたNHK「クローズアップ現代」の「イラク派遣 10年の真実」では、イラクから帰還後に28名の自衛隊員が自殺した事を報じた。

自殺に至らなくても、PTSDによる睡眠障碍、ストレス障碍に苦しむ隊員は、全体の1割から3割にのぼるとされている。

非戦闘地帯にいて、戦闘に直接関わらなかった隊員ですらこの様な影響がでているのである。

そしてまた、この本を読んで感じたことだが、日本ではそうした隊員に対する支援のシステムが出来ているとは言い難い。

私たちは戦争の素顔を、余りに知らない。

『私家版・ユダヤ文化論』

養老さんが推すだけのことはある。そう思った。よく考えられている。どれだけ理解出来たかは甚だ心許ないが、緻密でダイナミックな思考がとんでもない深さで展開されていることは分かった。
ユダヤ人という人びとが存在して、彼らは歴史的にも現実的にも差別されている。このことを私たちは漠然と、当たり前の事のように考えている。

そうなのだろうか?

この本は「ユダヤ人とは誰のことか?」という問いで始まる。

分からないのだ。

そこで著者は本の目的を変更する。

小論において、私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは「ユダヤ人というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ、そして、この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要であるということ、この二点である。

ユダヤ人がユダヤ人であるのは、彼を「ユダヤ人である」とみなす人がいるからである。

私たちはユダヤ人の定義としてこの同語反復意外のものを有していない。

ユダヤ人は国民ではない。ユダヤ人は人種ではない。ユダヤ人はユダヤ教徒のことでもない。

サルトルは語る
「ユダヤ人とは他の人びとが『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。この単純な真理から出発しなければならない。その点で反ユダヤ主義者に反対して『ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者である』と主張する民主主義者の言い分は正しいのである」

この様にこの本はユダヤ人とは誰のことかという問いは回答不能であるということの記述から始まり、見事な文化論になっている。

その中でも、人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである。というレヴィナスの「アナクロニズム」の考え方を元に展開される考察はフロイトの「原父殺害」のシナリオに付きまとう不自然感に見事に答えている。

ユダヤ人とは?という問いは、「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合かという問いにも置き換えることが出来るのだろう。

『九月、東京の路上で』

1923年9月1日(土)午前11時58分、神奈川・相模湾から房総半島南端にかけての一帯を震源とする、M7.9の地震が、関東地方を襲った。関東大震災である。

この関東大震災は地震による直接の被害の他に、地震直後に発生した火災による被害が甚大であった。

しかし、忘れてはならないことに、被害に更に凄惨な相を与えたのが、「朝鮮人が放火している」「井戸に毒を投げている」などの流言飛語が飛び交い、その噂を真に受けた人びとが、刃物や竹槍などで行った朝鮮人(更には中国人)の無差別虐殺だった。
 この本、『九月、東京の路上で─1923年関東大震災ジェノサイドの残響』は、丹念に史料を集め、広く、深く史料を読み込むことで関東大震災当時起きたジェノサイドを限りなくリアルに再現した良書だと思う。

この本は、惨劇を網羅的に記述し、解説するものではない。当時の具体的な事実を、記載し、どこでどの様な事件があったかを追っている。

しかし、大切な事はこの本は危機意識によって書かれているということだ。

関東大震災から90年経つ現在も、在特会などの民族差別主義者団体がヘイトスピーチを繰り返す事件が度々起き続けている。

この本のまえがきと最終章で、ヘイトスピーチや石原元東京都知事の「三国人発言」などの現在の状況に触れており、かつての出来事がまさに修辞学的な意味でなく、現実のものとして過去の出来事ではないことを指摘している。

私たちは関東大震災に伴うジェノサイドは、当時の社会状況に触発された、特殊な過去の出来事であると思いたがる。

だが、現在進行している出来事は、現在そのものが民族差別主義者たちが闊歩する状況にあり、一旦事あればかつての出来事が、即、繰り返されても何の不思議もない状況である事を示している。

過去は地繋がりで現在につながっている。

作者の危機意識はここにある。

「不逞朝鮮人 」の文字を彼らのプラカードに見つけたとき、私は1923年関東大震災時の朝鮮人虐殺を思い出してぞっとした。レイシストたちの「殺せ」という叫びは、90年前に東京の路上に響いていた「殺せ」という叫びと共鳴している─。

また、関東大震災におけるジェノサイドの場面では、警察などがむしろ積極的に朝鮮人に関する流言飛語を拡散させていたことを、この本は強調している。

権力の関わり方が、「流言飛語」にリアリティーを与えてしまうことを強調しているのもこの本の特色のひとつとしてあげられる 。

権威を持つ警察や新聞が、流言飛語に補償を与えていたのだ。

震災による混乱の最中、最初は飛び交う流言飛語に半信半疑だった者たちの中には、この事によって、流言飛語にリアリティーを感じ、信じ込んでしまった者も多かっただろう。

惨劇を再び繰り返してはならない。
その為には過去の歴史を、丹念に読み解き、その意味を身体に刻み込む作業が必要だろう。
その目的のためにこの本は、良質の入り口となっている。

『「対米従属」という宿痾』

随分読んだ本を溜め込んでしまった。大急ぎで感想をまとめておきたい。


ガバン・マコーマック/乗松聡子『沖縄の〈怒〉』の第5章は「鳩山の乱」と題されており、鳩山由紀夫が総理大臣として、対米従属とその既得権益に対して挑戦し、挫折した経過を追っている。本書『「対米従属」という宿痾』を、私はその章を保管する史料として読んだ。
この本は鳩山由紀夫、孫崎享、植草一秀という、合衆国に反旗を翻し、多かれ少なかれ潰しにあった3者の鼎談である。

当然「一方の側」からの陳述となる。

その一方の側というのは主に、首相の座を追われた鳩山由紀夫の立場からと言う事になるだろう。

それでも、一定の資料的価値はある。

主に普天間移設の失敗で、総理の座を追われた鳩山由紀夫だが、 その真相とはどの様なものであったのか。彼が目指していたものは何だったのかなどが本人の口から語られており、それを知る事が出来たことは価値があったと思っている。

鳩山由紀夫は植草一秀の「米、官、業、政、電」の癒着という観点を採り上げ、これらの癒着の原点は
畢竟、「日本は戦争に負けた」という事実を粉飾しようとしているところからきている
と述懐する。

そして、
戦争に負けたにも関わらず、アメリカのおかげで(より正確に言うならば戦後直後の朝鮮戦争と6、70年代のベトナム戦争による特需)、すぐに経済大国への道を歩むことが出来たために、卑屈なまでの劣等感から、アメリカへの従属心がうまれ、一方ではその反作用の形で、中国、韓国などのアジア諸国に対する優越感を生み、かこの歴史に関するこじつけや粉飾が行われた

としている。この分析は定説になっていると言っても良いだろう。

鳩山由紀夫という人物の評価は別として、この本には「巻末資料」として、幾つかの文献が収録されているが、ここにはかなり重要な記載が含まれていると感じた。重要な史料である。

それだけでもこの本は意外と重要な文献と言えるのではないだろうか。

20151102

『沖縄の〈怒〉』

この本、ガバン・マコーマック/乗松聡子の『沖縄の〈怒〉』はResistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United Statesの日本語版(邦訳ではない)として2013年初頭に出版されている。従って、記述されているのは2012年迄の事柄だ。
それ以降の事柄に関しては、まだ記憶に新しい。その為沖縄の現代史をこの本と記憶、ファイルしてある史料などから辛うじて切れ目なしに概観することが出来た。

幸運なことだったと思う。これ以上遅く、この本と出会っていたら「すき間」を埋めるのにかなり苦労したかも知れない。

前半を読んでいて、何とも苦しい気分に襲われた。私たちは沖縄に対して、何というひどい仕打ちをして来たのだろうか。そして、しているのだろうか。

1609年の薩摩藩の侵攻とその後の「琉球処分」も沖縄人の独立性を徹底的に破壊したが、何と言っても第2次世界大戦時の皇民化政策、そして沖縄戦の「最も血みどろの」戦争。それも沖縄人を守るのではなく、本土への侵攻を少しでも遅らせる為だけに、沖縄の人口の1/3を犠牲にした戦争は、文字通り沖縄を「捨て石」とするものだった。

戦後もひどかった。
本土にとっての「主権回復」の日1952年4月28日は、沖縄では日本から切り離され、合衆国の占領下に捨て置かれた「屈辱の日」として深く心に刻まれた。

それ以降、合衆国の戦争に、日常的に巻き込まれ続けている。

この本はそれらの歴史を丹念に追っている。

しかしこの本の中核はその歴史の記述にあるのではないという。

沖縄の歴史の主役は、それを記述する者ではなく、歴史を動かす人びとであるとしている。

第9章ではその中から

与那嶺路代
安次嶺雪音
宮城康博
知念ウシ
金城実
吉田健正
大田昌秀
浦島悦子

の8名を代表させ、声と主張を載せている。

この8人の声と主張はこの本の中核を成すものである。

という。

この章の前段として、それ迄の章の記述があるという構成なのだ。


私たちにとって、沖縄と向き合うという事は、どういった心構えを必要とするのだろうか?

無関心である事が、最も罪深いだろう。

賛成反対を別にして、私たちは現実として日米安全保障条約を受け容れている。

しかし、それに伴う基地の殆どは(全部ではない。これも大切な認識だ)沖縄に押し付けている。

その基地との軋轢は、沖縄の日常を破壊している。

無関心である事はその犠牲の上にどっかりと坐り込むような行為だ。

余りにひどい。

繰り返しになるが、私たちは沖縄に対して、余りにひどい仕打ちをして来たし、し続けている。そのことを思う度に心は萎える。

だがこれで打ちひしがれている事は、沖縄の人びとの不屈の戦いを踏みにじる行為だ。

「敵」は余りにも強大で無慈悲だ。だが、大切な事は決して諦めないことだろう。

もし、自分に誇りがあるのなら、誇りを持ちたいのであるのなら、一刻も早く立ち上がった方が良い。

この本はその為の、重要な展望を私たちに与えてくれるだろう。