20240720

サラゴサ手稿

複雑な構成を持った物語である。

ポーランドの貴族、ヤン・ポトツキが生きたのは1761年から1815年。だが彼がフランス語で著したこの奇想天外な物語の全貌が、やっと復元されたのは21世紀になってからだった。


シェラ・モレナの山中を彷徨うアルフォンソ・バン・ウォルデンの61日間の手記によって、彼が出会った謎めいた人々と、その数奇な運命が語られている。

だが、その語られ方は、一筋縄で済む筈がなく、話の中の登場人物が別の物語を語り出し、その中の登場人物がさらに新しい物語を語るという入れ子構造がふんだんに駆使され、多い時には5層まで、その入れ子は増える。


更には、第一日目に登場した人物が、第五十日を超えて、再び登場してくるなどは当たり前。登場人物の相関関係も、複雑に絡み合っている。

それらをきちんと理解するだけで、私の頭はパンクしそうになった。


歴史的に正しい王位継承戦争の頃の王族の血縁関係が語られているかと思えば、それに絡めて、著者の完全なフィクションも織り込まれており、どこまでが虚でどこからが実なのかも判然としておらず、訳註を飛び出して、Webでの検索に頼らざるを得なかった事も一度や二度ではない。

話はレコンキスタ終了直後のイベリア半島を中心として、とりあえず展開されている。私はこの時期のヨーロッパ史を、余りに図式的に理解していた様だ。グラダナが十字軍によって攻め落とされ、それ以降、ヨーロッパは再びキリスト教文化圏として、歩んだように思っていたが、この物語を読んでみると、レコンキスタ以降も、イスラーム勢力は残り続け、キリスト教勢力との交渉も意外と盛んに行われていた様だ。

それ故、イベリア半島独自の文化も、形成された訳で、むしろキリスト教とイスラーム教が混淆していたと考えたほうが、圧倒的にリアリティーがある。

それに加え、ユダヤ教やロマの文化が混ざり合う。また、物語の舞台も、全ヨーロッパ、北中米にまで拡大する。

その証左となるのは、主人公アルフォンソを凌ぐ勢いと量で語られる、ロマの族長の物語だ。彼の圧倒的な記憶力と構成力によって、幾晩にも渡って、芳醇な物語が語られる。それは聞く者(読む者)を決して飽きさせる事がない。

物語の複雑さから、予期していたより、遥かに時間が掛かってしまったが、それを差し引いても、私の中に残ったサラゴサ手稿を読んだ歓びは、余りあるものがある。

この読書体験は、私の中でも特別なものとして、残り続けるだろう。

10日に渡る長い旅が終わった。

ダリ版画展

長野県立美術館で開催されている、ダリ版画展「奇想のイメージ」を観に行って来た。


この展覧会、入場料が一般で1,400円掛かる。だが私は身体障害者なので、私自身と付き添い一人が入場無料になる。この制度を使わない手はなかろう。

ダリは大好きな画家だ。中学から高校に掛けて、強く影響され、ダリ風の絵を何枚も描いた。だが、当時私が観ていたのは、主に油絵であり、ダリの版画をまとまった形で鑑賞するのは、今回が初めてだ。


ダリが版画に本格的に取り組んだのは、50代後半かららしく、生涯に1,600点余りの作品を残している。今回の展覧会では、1960年代から70年代に精力的に制作された版画を中心に、晩年に掛けて制作された200点余りの作品が展示されていた。

そこには地平線、やわらかい時計、蟻など、ダリ得意のテーマがふんだんに展開されており、ダリファンとしてはそれだけで心踊るものがあった。

用いられている技法としては木口木版を始めとして、エッチング、リトグラフ、ステンシル、エングレーヴィングと幅広く、ダリの版画に対する態度が本気だった事を、十分に伺わさせるものだった。

最初に陳列されていたのは、ダンテ『神曲』からインスパイアされた作品全点で、地獄篇はあくまでもおどろおどろしく、煉獄でベアトリーチェと出逢うシーンはあくまでも感動的、そして天国篇は途方もなく清らかと、ダリのイメージ力がふんだんに発揮されていた。

ダリと言えばなんと言ってもシュルレアリスムだが、その技法を惜しみなく発揮している作品群がその後に続く。

だが、場内の静けさに圧倒されて、私も笑い出さなかったが、かなりウィットに富んだ、ユーモア溢れる作品も多かった。ダリはゲラゲラ笑いながら観るのが、正しいと私は思う。

難を言えば、展示の仕方が、迷路の様に複雑で分かりにくく、私たちは危うく一部屋分の作品を見逃しそうになった。

朝の涼しいうちにと、やや早めに出掛けたのだが、200点と言えど、展覧会は充実しており、3時間半があっと言う間に流れ過ぎた。

だが、流石にダリは鑑賞に体力を使う。観終わった後、昼食に向かったのだが、その間、両足が攣った。

20240713

エブリデイ・ユートピア

21世紀になって、ユートピアを思い描く事を辞めてしまった。

きっかけとして、やはり1991年のソ連の崩壊が大きかった。マルキシズムによる労働者国家の建設は、中学時代からの具体的に実現可能な、ユートピア建設のヴィジョンだった。その歴史上の壮大な実験が、ソ連の崩壊というこれまた歴史上の大きな現実として、冷酷に突き付けられてしまった。私にはそう思えた。大きなショックだった。

ソ連ばかりではなく、他の社会主義陣営の現実も、それまで思い描いて来たユートピアのイメージからは程遠く、「歴史上の壮大な実験」は、事実上失敗に終わった。そうとしか考えられなかった。

なので本書、クリステン・R・ゴトシーの『エブリデイ・ユートピア』も、それ程期待もせずに、図書館から借りて来た。


だが、著者の本気度は、私の貧弱な想像力を遥かに凌いでいた。

彼女は、実際に試みられている、ユートピア建設の実例を、豊富に示している。

これには、正直驚かされた。

世界には、実に多くの人たちが、ユートピアを夢みる事を辞めずに、実現の可能性を探り、そして、実践していたのだ。

世の中は冷笑的な雰囲気に包まれている。ユートピアを語ると、それだけで、お花畑と片付けられ、手酷く打ち捨てられる。私もどちらかと言うと、その雰囲気に負けていた。

だが、こうしてユートピア実現の数多くの実例を示されると、遠い昔に捨て去ってしまっていた思いが、むくむくと蘇ってくるのだ。

まず、夢みることを辞めない。それが肝心なのだ。それはつまり、想像力をフルに働かせるという事だ。現実に縛られる今からその束縛を解き、想像力を思う存分飛翔させる事。そこからしか、ユートピア実現の実践は始まらない。

それは、今の私たちの現実に、疑問符を付けてみるという事でもある。

本書には、その疑問符の実例も豊富に示されている。

読み進めるうちに、私は次第に「その気」になって行くのを感じた。それは意外にも、心地良い解放感を伴う勇気だった。

私はこの本を、現実に敗北し、屈服しまくっている、現在の若者たちに、是非手に取ってもらいたいと願う。

ユートピアは死んではいない。それは十分実現可能なのだ。資本主義の行き詰まりは、もう誰の目にも明らかに進んでいる。もはや、新しいユートピアの建設を、私たちの手で掴み取るしか、未来はない。

必要なのは想像力、勇気、そして決断力。

その事を、本書はそっと私に教えてくれた。

20240627

「むなしさ」の味わい方

むなしさには取り憑かれ易い方だ。最近も自分がどうしても存在価値のない人間に思えて、そこから抜け出そうと足掻いて、無理をしては墓穴を掘るというような行為ばかりを繰り返していた。

そんな折、この本と出逢った。渡りに船とばかりに飛び付いた。


著者きたやまおさむさんは、以前フォーク・クルセーダースのメンバーとして活躍していた。ご存知の方も多いと思う。

現在は芸能活動からは足を洗い、精神科医として活動している。著書も多い。

ミュージシャンから医者への転身については、『コブのない駱駝』に詳しく書かれている。

本書の中できたやまおさむさんは、「むなしさ」という心理を、精神分析の文脈から分析し、それがどんな状態のものであり、どんな発生のメカニズムを持っているかを、丁寧に説明している。

その上で、「むなしさ」は、どんな人にも、必ずと言って良い程訪れる心理状態であり、避け得ないものであると結論している。

「むなしさ」が避けられないものであるとしたら、どうすれば良いのか?

「むなしさ」をじっくり噛み締めて、味わってしまえ。著者はそう述べている。

それがこの本の主旨だ。

そうすれば、「むなしさ」は、単なる苦しみから、何事か新しいものを産み出す、契機となるかも知れない。

この提案に、私は目から鱗が落ちる思いを感じた。

私はむなしさから逃げる事ばかりを考えていた。そこから姿勢を転じ、まずむなしさと積極的に向き合ってみる事から始めよう。そう思えて来たのだ。

この本の中で著者は、現代という時代が、「喪失」を喪失した時代だと指摘している。成程現代では、不足しているものは何もなく、欲しい物は何でも、Webを使うなどすればすぐに届けられる時代だ。だが、だからこそ、現代人が一旦「むなしさ」に取り憑かれると、深刻な状態に陥ってしまうのではないだろうか?むなしさを埋め合わせる為に、与えられる物は既に何もないのだから。

読み終えて、著者きたやまおさむさんが、何故この本を書く気になったのか?そこが気になった。今、何故「むなしさ」なのか?

私には、その答えが、本書の中に散りばめられているような気がするのだ。

この本は、かつての盟友加藤和彦に宛てて書かれた本なのではないか?

私の周りでも、何人もの友が自ら死を選んだ。私はその度に、やり切れない思いに沈んだ。同時に、いつも自死したのが何故彼であって、私ではないのか?そうした疑問の渦に巻き込まれた。

きたやまおさむさんにとっても、加藤和彦さんの自死は、やり切れない体験だっただろう。避けられないものだったか?そうした思いに、常に付き纏われただろう事は、想像に難くない。それは、ともすれば、自分をも巻き込む、大きな渦巻きだ。そこから抜け出すにはどうしたら良いか?

本書はそうした思いから書かれたように、私には思える。

「むなしさ」に付き纏われている、全ての人に、この本を勧めたい。

20240623

ロシア文学の教室

著者奈倉有里さんの作品を読むのは、これで3冊目になる。

最初に読んだのは、創元社から出されている「あいだで考える」シリーズの中の1冊、『ことばの白地図を歩くー翻訳と魔法のあいだ』だった。この本は本当に魔法で、ロシア語を学ぶ、学び方を指南する内容だったのだが、その誘い方が巧く、私はその魔法に本当に掛かり、この歳になっても、ロシア語をマスターする事が出来るような気にさせられて、学習を始めてしまった。

次に読んだのは、『夕暮れに夜明けの歌をー文学を探しにロシアに行く』だった。ソ連崩壊直後というタイミングで、ロシア国立ゴーリキー文学大学に学んだ体験談だった。ちなみに奈倉有里さんは日本人で初めてこの大学を卒業した経歴を持っている。

今回選んだのは、出版されたばかりの、『ロシア文学の教室』。


シンプルなロシア文学の紹介かと思っていたのだが、何と青春小説仕立てになっており、子どもの頃から小説を読み始めると没頭して周りが見えなくなる、不器用ながら真っ直ぐな青年、湯浦葵を主人公にして、大学でロシア文学を学ぶ学生と教授のやり取りが描かれている。

勿論、ロシア文学の紹介も、12人の文豪を採り上げて詳しく解説されており、予想は必ずしも間違ってはいなかった。

私は、自分を本好きだと自覚していた。それなりに本を読んで来たという自負もあった。

だが、奈倉有里さんと彼女の描く学生達の言動を読んでみると、その自負は、単なる自惚れだったと分かる。

私は、理系にしては、文学に親しんで来たという程度の存在であり、ちっとも大したことない。大学で文学を学ぼうと集まって来る学生達は、読んで来た本の数も多ければ、読みも深い猛者達であり、私なんぞは到底歯が立たない。

小説で採り上げられている文豪達の、選ばれた作品で、読んだ事があるのは、ドストエフスキーの『白夜』と、ゴンチャロフの『オブローモフ』だけで、他は全くの未読。中には初めて聞く名前の文豪もおり、ロシア文学の層の厚さを、これでもかという程、思い知らされた。

それを読んでの、学生達の感想もどれも鋭く、深く、それに対する枚下教授の受け応えも見事で舌を巻いた。

調べてみると、この作品に採り上げられている小説は、どれもメジャーで、全て図書館で読める事が分かった。

この小説に出て来る小説を、近いうちに全て読んでみたい。読み終えて、私の中にそんな野望が沸々と湧き上がって来るのを抑えられなかった。

ロシア文学の紹介だけでなく、本作は小説としても出来が良い。恋あり友情ありで、物語世界に、思う存分遊ぶ事が出来た。

私は著者奈倉有里さんと、幸福な出逢い方が出来たと感じている。この著者には才能がある。

20240614

魔の山

トーマス・マン『魔の山』を読み終えた。


今回で5回目になる。内1回は対訳と名打ってある抄訳だったので、完全に通読したのは正確には4回目だ。高橋義孝訳を選んだ。これが現在のところ最も新しい訳だからだ。これに加えて、原書、Thomas Mann “Der Zauberberg”を併読した。結果としては、これが功を奏したと思う。


長編である。だが今回通読して、感じたのは、これだけの長編でありながら、無駄が全く無いという事だった。巨大で純粋な結晶の様に、混ざり物を全く感じない作品だった。


今迄読んだ時には、主人公ハンス・カストルプにどうしても魅力を感じられず、感情移入出来ない事を強く感じていたが、今回は、苦手意識はやはりあるものの、それに捉われる事があまりなく、それを補って余りある、周辺を固める登場人物の魅力を味わう事が出来、するすると読み進める事が出来た。

病というものが、人間とその精神にいかなる作用を与えるのか?一言で言えば、これがこの小説のテーマだと思う。

それに加えて、執筆時に晴天の霹靂の様に勃発した、第一次世界大戦の影響が、この作品には色濃く現れている。

トーマス・マンは、極め付けで美しい「雪」の章の後、小説を続けてしまった事を、「構造的欠陥」と表現しているが、私はそうとは感じなかった。むしろ「雪」以降の展開が、『魔の山』という作品に、深みを与え、魅力になっている。そう感じた。

読んでいて、「面白い!」と思わず声を挙げてしまった程だ。

久し振りに、小説らしい小説を読破した。読み終えて、一人言い知れぬ感動に酔いしれた。満足している。

20240501

ちよう、はたり

志村ふくみさんの文章に、最初に触れたのは、石牟礼道子さんとの対談『遺言』だったと思う。

ものの分かった者同士の話は面白いと感じ、以来気に掛けて来たが、評価の高いエセーを読んだのは、今回が初めてだ。

良い。


長年染色という仕事に携わって来た者が、到達した、深い境地を、私にも分かる、深く透明な文章で、垣間見させてくれる。

例えば、

「物を創ることは汚すことだ」と、まずみずからを戒めたい。

という言葉が、私の心に突き刺さる。

真っ白な糸、布、それらに手を下す。人の手が触れればまず汚れる。無垢のものをそのまま手の内にとどめることは不可能である。

それなのに人は物を創る。

創っている時はそんなことを考えず、ひたすら美しいものを創りたいと願って仕事をしてきた。

なんという崇高な矛盾なのだろうか。

また、次のような言葉がある。

植物の緑、その緑がなぜか染まらない。あの瑞々しい緑の葉っぱを絞って白い糸に染めようとしても、緑は数刻にして消えてゆく。どこへ──。この緑の秘密が私を色彩世界へ導いて行った。

山の岩肌から化石を採取する。岩から割ったばかりの化石の断面は、モルフォ蝶の様な、鮮やかな色彩を帯びていることがある。だがそれは、数分で消え、手には灰色のサンプルが残る。そんな体験は、私も何度もして来た。還元的な環境で残っていた色彩が、酸化した。科学的にはそれだけの事なのだ。だが、心の内にどうしようもないもどかしさが残る。

続きにこうある。

原則としては、花からは色は染まらない。というのは、あの美しい花の色はすでにこの世に出てしまった色なのである。植物はその周期によって色の質がちがう。たとえば桜は花の咲く前に幹全体に貯えた色をこちらがいただくのである。

やがて、色彩を仕事として来た志村ふくみさんは、ゲーテの『色彩論』に辿り着く。ゲーテが言いたかった事に、仕事の中で出逢う。

何という深い境地に、身を置いているのだろうかと驚く。

志村ふくみさんのエセーは、その境地に、私たちを優しく誘ってくれる。

私はこれからも、志村ふくみさんのエセーを、味わう事をやめないだろう。それは、私の中で育まれる、風雅な時の流れなのだ。