懸案だった。
昨年の秋頃からFBなどで紹介され、とても観たいと思い続けてきた。今日、ようやく観ることが出来た。
映画『ハンナ・アーレント』だ。
秋に、松本で上映されていたことは知っていた。それを観に松本まで行こうかとも思った事もある。
数日前(定期的にチェックしていたのだが)
公式サイトを見てみると、長野市で上映する事が分かった。それも応援している映画館
ロキシーでの上映だ。
上映を知る前、映画を観ることが出来ない憂さを、ハンナ・アーレントの著作を読むことで晴らしていた。
ハンナ・アーレントの本の多くはみすず書房から出版されている。いや、良い本を出版してくれている出版社だと思うし、悪いイメージはない。ないのだが、いかんせん本の値段が高い。なのでハンナ・アーレントの名前を知って10年以上経つが、なかなか本を買えずにいた。
しかし、そんなときの為に図書館がある。
映画の影響だと思うのだが、『
イェルサレムのアイヒマン』は長いこと貸し出しになっていた。
先週ようやく借りることが出来た。
まだ半分程しか読んでいない状態だが、それでも映画の中で、あ、あの部分だ!と思い当たる事が幾つもあった。
しかし、映画で受けるアイヒマンの印象と『イェルサレムのアイヒマン』からのアイヒマンの印象は少しずれがあった。映画では平凡な小役人と言うことだけが強調されていたが、本の中のアイヒマンはそれよりももっと卑小な存在として描かれている。
平凡なだけではない。嘘つきで記憶力に乏しいどうしようもない存在なのだ。
恐らく、ナチの行為が暴かれつつあった戦後、行われた悪の巨大さの故に、人々は、そして誰よりユダヤ人たちは悪を為した人間は、その悪の大きさに見合うだけの巨大な悪魔的な怪物であって欲しかったのだろう。
しかし、事実はそうでは無かった。
アイヒマンはどこにでもいる平凡な、そして卑小な存在だった。
その事をアーレントは『悪の凡庸さ』と呼んだ。この概念は現代に至るまで有効で重要だ。いや、現代特に着目しなければならない概念と言える。
これを発表してハンナ・アーレントはアイヒマンを擁護したと非難されたとしばしば評されるのだがここが問題ではなかったのだと私には思える。
映画の中でも裁判の記事を書き始めてすぐ指摘されているが、問題とされたのは「ユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力した者がいた。それによってユダヤ人の犠牲が増えた」という記述の方にあったと思う。
アーレントは何故この記述にこだわったのだろうか?
この事がこの裁判によって明らかになった事だからという点が先ずあるだろう。
そして何より、全体主義は加害者側にアイヒマンのような思考停止的な非人間を量産してしまう罪とともに、被害者側のモラルの崩壊を引き起こしたのだ、と言うことを言いたかったのではないだろうか。
『イェルサレムのアイヒマン』以上に頻繁に引用されていると感じたのは、同じくハンナ・アーレントの『
責任と判断』だった。
とりわけこの映画の目玉とも言える講義での「8分間の演説」で展開される主題は、明白に『責任と判断』と重なる。
この日普段は休憩時間にならないと吸わない煙草に、アーレントは最初から火を点ける。緊張していたのだ。
学生や大学の教授が見つめる中、教壇に立ち、煙草を吸いながら、彼女はこう訴えかける。
「(アイヒマンを)罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです」
さらに、自分はアイヒマンを擁護したのではなく理解を試みたのだと主張したうえで、このようにも語る。
「アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」
『責任と判断』ではこの論点をギリシア哲学からカントまでを引用し、丁寧に解き、問題を歴史的な哲学の体系の中に位置づけている。
この思考する能力の放棄という問題を訴える中で、加害者だけでなく、被害者の側にも及ぶモラルの崩壊という論点は、どうしても避けて通れない課題だったのだろう。
『イェルサレムのアイヒマン』の中で印象的だったのはナチの内部で行われていた厳重な「用語規定」だ。
〈絶滅〉とか〈一掃〉とか〈殺害〉というような不適当な言葉が出て来る書類が見付かることはめったにない。殺害を意味するものと規定されていた暗号は〈最終解決〉Endlösung、〈移動〉Aussiedlung、および〈特別処置〉Sonderbehandlungだった。移送は〈移住〉Umsiedlung、および〈東部における就労〉Arbeitseinsatzとされた。
これと似たことを、3年程前、私たちは経験した。事故を事象と置き換え、原発が爆発した映像を見ていてもそれを爆発的事象と強弁した姿勢こそ、ナチの「用語規定」と同じ事を実際にしていた姿ではなかったか?
原発を推進してきたのは、組織性の中に埋没し、「用語規定」を駆使することによって欺瞞の思考を蔓延させ、結果的に思考停止してきた科学の、或いは政治の専門家たちだった。
そして今、私たちは再び思考を停止させ、再稼働容認という形で原発を選び取ろうとしている。
アイヒマンはどこにでも存在する。私たちは今こそこの教訓を胸に刻まなくてはならない。
私は映画を観ながら、ハンナ・アーレントの本と同じ頃読んでいたミシェル・フーコーの『
真理とディスクール』を思い出していた。
その中でフーコーは知識人が行うべき行為として、自身が不利になっても勇気を奮い起こして包み隠さずに行う真理を語る行為を
パレーシアと呼んだ。
ハンナ・アーレントは自らの「悪の凡庸さ」を主張することで、ユダヤ人社会から猛烈な抗議を受け、多くの友人を失った。しかし、彼女は断固考える事を放棄する危険性を訴え続けた。
ハンナ・アーレントは生涯を通じて、パレーシアを行使していたのだ。