遊行。ゆぎょうと読むらしい。
兎にも角にも文章が美しい。地の部分の標準語も、会話の日向弁も、それぞれが音楽のように響き合って、互いに美しさを引き立て合っている。
本文に続く「『おえん遊行』をめぐって」の中で、この作品を長編詩劇と表現しており、成る程と頷いた。
この文章は詩として書かれている。
舞台は江戸時代の熊本天草。そこに住む漁民たちの生活。流れ寄って来る客人(まろうど)。暮らしの中で歌われる、数々の歌などが、途方もなく美しい文章で記されている。
客人は希人(まれびと)でもある。
それは決して健常者に限られたものではなく、我が身に障碍を得た者たちも含まれるのだが、漁村の民たちは、絶妙な距離感で、彼等、彼女等と交流してゆく。
やって来るのは人だけではない。それは大嵐であり、雲のような蝗の群れであり、漁民たちは、それ等に翻弄されながらも、逞しく生き続ける。
あとがきを読んでみると、この作品は難産だったらしい。後から書き始めた『あやとりの記』の方が先に出来上がってしまったが、著者はそれを
今思えばその間、おえんたちを、わたしの意識の〈無時間〉の中で、遊べや遊べと思っていたからだろう。
と述べている。
全集で石牟礼道子作品を、発表順に読み進め、気が付いてみると、もう半分以上読んだ事になる。そのように彼女の作品に触れる事で、それぞれの作品が、独立したものであるのと同時に、互いに響き合っている事にも気付かされた。
全集では、主となる作品がひとつと、それをめぐる短文。そして、その作品が発表された時期に書かれたエセーが含まれている。
そのようにして、私は石牟礼道子世界を縦横無尽に駆け巡る。これは読み始めた時には期待もしていなかった読書体験だ。
これからも、全集による石牟礼道子体験を、私は続けてゆくのだろう。それは同行二人の長い旅であり、期せずして体験する、風雅な時の流れだ。
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