読み進めるうちに、私はジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読んだ事があるのだろうか?と、基本的な事が不安になった。
本書は、
私は本書でひたすらに『ジェンダー・トラブル』に拘ることにする。他の著作や論文を参照することもあるが、それはあくまで『ジェンダー・トラブル』を理解するためである。私が『ジェンダー・トラブル』に拘るのは、もちろんそれだけ『ジェンダー・トラブル』が重要で面白いからでもあるが、それだけではなく、『ジェンダー・トラブル』を深く理解することが、バトラーの思想や理論の核心を理解することでもあると考えるからだ。
とあるように、ジュディス・バトラーの主著(というより象徴)である『ジェンダー・トラブル』に特化した解説書である。
ところが、本書で解説されている『ジェンダー・トラブル』と、私の記憶の中に整理されている『ジェンダー・トラブル』が、どうしても一致しないのだ。
日記にも2020年の3月から4月に掛けて、比較的丁寧に読んだ記録が残っている。それどころか、私は非常にこの『ジェンダー・トラブル』が面白く読め、読後の記憶がかなり鮮明に残ってもいるのだ。
本書には次の様な記述もある。
どれだけの人がこの本につまずいたのだろう。あるいは、どれだけの人が「読んだ気になって」いるのだろう(あるいは、私も?)。そこで本書では『ジェンダー・トラブル』を中心にバトラーの理論を紹介・解説していくことにしたいーただし、一風変わった、ヘンテコな、つまりクィアな方法で。
確かに『ジェンダー・トラブル』は、難解だった。だが、それも分からないレヴェルではなく、丁寧に読み解いてゆけば、理解可能だと、私は判断していた。だがそれも「読んだ気になって」いただけなのだろうか?
それ程、私の記憶の中の『ジェンダー・トラブル』と、本書で紹介されている『ジェンダー・トラブル』の間には、大きな齟齬があった。
著者は断言している。
言ってしまえば、本書はバトラーの『ジェンダー・トラブル』の非公式ファンブックである。一介の『ジェンダー・トラブル』ファンが書いたファンジンだ。
ところが、本文が始まるや否や、著者は、バトラーではない人物の賞賛から入る。第一章は「ブレイブ・ニュートン」と題された文章であり、そこにはエスター・ニュートンというひとりのレズビアンのブッチがどのようにレズビアン・フェミニズムを経験し、考えたかが、概観されている。
私たち読者は、この気まぐれな構成に振り回され、ただ戸惑うばかりだ。
だが、ジュディス・バトラーの引用が始まり、それに対する論考が行われる様になると、著者の筆の勢いも一段と増して来る。
その様な事、書いてあったっけ?と、原典を取り出して確認してみる事数度。驚いた事に、著者の読み解きは、かなり原典に忠実なのだ。
かと言って、私の読み解きも、そう間違ってはいなかった。
要は、ひとつの対象に、どの角度から光を当てるかという問題だったのだと思う。私はさまざまなセクシャリティとフェミニズムの相関に力点を置いて読解していた。
それに対し、著者はレズビアン・フェミニズムの聖典として、『ジェンダー・トラブル』を捉えている側面が強い。
だがそこから、ジュディス・バトラーの理論は、ジェンダーをなくす方向ではなく、むしろジェンダーの選択肢を増やすものであるという重要な指摘や、インターセクショナリティ─への架橋が、明示されている事などが、分かり易く、くだけた書き方で仄めかされている。
著者の読みには、十分な説得力と必然性があることが、十分に理解出来た。
私は、従来の私の読み方とは異なる。『ジェンダー・トラブル』の新たな視点を、著者から示して貰えたと、感謝している。
今月は図書館から本を大量に借りて来ているので無理だが、その内に時間を作って、『ジェンダー・トラブル』を、再度読んでみようと身構えている。
現代を代表する名著『ジェンダー・トラブル』だ。1回かそこら読んだだけで、理解したつもりになっている様では、「読んだ気になって」いるだけである事は、明らかだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿