スタニスワフ・レムを知ったのは、いつの事だったのだろうか?
かなり前、まだ膨大な本を所有していた頃、私はスタニスワフ・レムの『高い城・文学エッセイ』を持っていた。これが発行されたのが、2004年の事なので、ほぼその頃から、彼を意識していた事になる。
けれど、気になっていながら、私は彼の本を放置したままにしていた。
その後引っ越しで本を整理しなければならなくなって、スタニスワフ・レムの本は図書館で読める事もあって、古本屋に売ってしまっていた。
以来彼の本は、頭のどこかに鎮座していたものの、読む機会を常に逸し、手に取ることが無かった。
ようやく読んだ。スタニスワフ・レムを知ってから少なくとも20年経って、やっと1冊読み終える事が出来た。
読んだのはスタニスワフ・レムコレクション第2期に含まれている『捜査・浴槽で発見された手記』だ。
期待通り、スタニスワフ・レムの小説は一筋縄では行かない、読み応えがあるものだった。
「捜査」にはメタ推理小説という、また「浴槽で発見された手記」には擬似SF不条理小説という売り言葉が付されている。
「捜査」は、死体が動き、そして消えるという謎の犯罪が描かれている。普通推理小説ならば、その謎に探偵が果敢に挑み、丁々発止と謎を解き明かすという展開になる。だがそこはレムの事。その様には筋が進んで行かない。捜査の責任を負ったスコットランド・ヤードのグレゴリー警部補が、真相の解明に乗り出すが、真犯人に繋がる手掛かりは見つからない。そのまま捜査は難航を極める。推理小説には謎が付き物だが、その謎が哲学的なものだったらどうなるのか?レムの読者への挑戦は、スリリングな展開を示す。
「浴槽で発見された手記」はまえがきがそのままひとつの独立したSFの体を成しており、そこから展開される手記もまた、不条理に満ちた複雑極まる筋をなぞる。
この「浴槽で発見された手記」を読んでいる間、私はそのノリに、どこかで出会った事があるような、懐かしさを感じていた。
読了後読んだ芝田文乃さんの解説によると、「浴室で発見された手記」は、ヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』を下敷きにして書かれているとの事だった。
『サラゴサ手稿』はつい最近全訳が出版され、読んだばかりだった。私は大いに納得した。
20年スタニスフワフ・レムを放置したのは、単なる偶然の事だったのだが、お蔭で順番通りに作品を鑑賞出来た事になった。
この本を読んで感心したのは、スタニスワフ・レムの作品世界の広大さ、多面性だった。とてもひとりの作家から紡ぎ出されたものとは思えない程、作品の質感は万華鏡の様な多彩さを持っている。
スタニスワフ・レムコレクションも第2期を終了させており、彼の作品を日本語で読める環境は十分に整っている。
またひとつ人生に楽しみが増えた。