『土偶を読む』という本が売れている。
噂には聞いていた。読んでいない。地質学をやって来て、「素人の斬新な発想」にはうんざりして来た。それと同じ匂いが、この本にはある。そんな気がする。
その本に危機意識を抱いた考古学者たちが、『土偶を読むを読む』という本を出した。『土偶を読む』のどこが専門家の目で見るとおかしいのか。それを徹底検証している。必要な事だと思う。
図書館で、この本も読まれていて、なかなか順番が周って来なかった。ようやく読めた。
縄文学は人気のジャンルだ。参入しようとする素人もまた、多い。
専門家は保守的だ。それら素人(困った事に一部の「認められない専門家」も)には、その思いが強い。だが専門家はそのジャンルを網羅的体系的に基礎から学んでいる。持っている基礎知識もまた多い。
素人の「斬新な発想」はそれらを軽々とすっ飛ばしてくれる。
一部の方々にとって、そうした姿勢は、爽快感も感じるようだが、実際には困った事であることが多い。
本書『土偶を読むを読む』を読んで、『土偶を読む』に欠けている視点の最大の欠陥は、編年と類例にあるのではないかと感じた。
ひとつの土偶にイコノロジーの手法を応用して、「何に似ているか」を探る。それもいいだろう。だが、ひとつの土偶が作成される迄、類例となる同系列の土偶は幾つも作られている。それを年代順に追跡する事で、土偶の編年が編まれる。
まさに「土偶は変化する」(本書p292金子昭彦)のだ。
例えば栗に見える土偶が、その類例を含めて栗に見えるのであれば、その土偶の作成意図に栗の精を想定しても良いだろう。だが、編年・類例を追跡してみると、そうではない例ばかりなのだ。
また、ある角度から捕らえられた写真を見ると、何かに似ているように思えても、その土偶を立体的に見てみるとそうではない。そうした例も多い。
学問に王道なしとはユークリッドの言葉だが、『土偶を読む』の著者も、縄文学の基礎くらいは、きちんと身に付けてから、ものを言って欲しいと感じる。
『土偶を読む』を読んでいないので、公平な評価とは言い難いが、今回もまた、新説・奇説より、学問のメインストリートの方が、面白くて深い。そう感じた。
だが、『土偶を読む』が発表された事で、縄文学の裾野が、今迄より拡がった事は確かだろう。それに対するアンサーである本書を読んで、私も縄文学の現在に、少しだけ触れる事が出来た。その事には何を置いても感謝したい。
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