最初は活字からだった。
ヘルマン・ヘッセにノックアウトされて、詩に目覚めた私は、高校に入ると、思潮社から出版されている現代詩文庫を少しずつ買い集め、愛読していた。その中の1冊に吉増剛造詩集があった。
それは時経る毎に続・続々と増えていった。
私の中で詩人は特別な存在として位置付けられていた。聖なる存在と言って良かった。その中でも吉増剛造は、他の詩人と比べても、段違いに特殊な、特別な存在だった。
安い現代詩文庫で読むという行為だけでも、彼の詩は、それが特別なオーラを放っている事が理解できたし、そのオーラを浴びる事だけでも、当時の私には掛け替えの無い体験だった。
後に東京の大学に進学すると、私はばね仕掛けの人形の様に、東京の「文化」を体験し始めた。その中に、当然の様に吉増剛造の詩の朗読があった。
最初にそれを体験した時の衝撃は今も忘れない。今迄の吉増剛造体験は、一体何だったのだろうかと、乱暴に否定したくなる程朗読による吉増剛造の詩体験は強烈だったのだ。
活字では決して体験する事の出来ない吉増剛造がそこに居た。
本書は吉増剛造の専門家を自称する、自らも詩人であり、TVディレクターでもある林浩平が、吉増剛造の現在を語らなければならないという、切羽詰まった衝動に突き動かされて書かれた、2冊目の吉増剛造論である。
読んでびっくりした。決して吉増剛造から、目を離した心算ではなかったのだが、本書で紹介されている吉増剛造は、私の知っている吉増剛造と比べ物にならない程、大きな変貌を遂げていた。
私の知っている吉増剛造は、活字の詩とその朗読に限られていた。
だが、彼はかなり以前から多重露光写真による作品を多数発表しており、その上近年ではgozoCinéと呼ばれる映像表現にも活路を広げていた様だ。
迂闊にも、私はその全てを見逃していた。
調べると、写真集の幾つかは図書館で、映像表現はYouTubeである程度追える事が分かった。地方都市に住む貧乏人である私は、ほっと胸を撫で下ろした。
思いがけない発見もあった。『詩とは何か』からの引用。
もう一つ、『我が詩的自伝』では「言葉を枯らす」ということを言いました。言葉を豊穣にするんじゃないんです、逆なんです。むしろ逆に、意味的、想像的、文学的、そういった次元において言語を少し弱くして萎えさせて、そんなときにふっと立ち上がってくる、こっそり立ち上がってくる幽霊のようなもの。論理学的な言い方をすると「否定」。否定した瞬間に違う種類の肯定が立ち上がってくる。そのすきを狙って何かが出てくるのを待っているような詩を書くようになったのです。
こうした姿勢は、彼の詩を漫然と読んでいただけでは、見出せなかった境地だ。
著者林浩平は、吉増剛造の全貌を捕まえるべく、本書の中で、評論で、往復書簡で、対談で、多面的に吉増剛造をデッサンしてゆく。
しかし、詩人吉増剛造は、その追跡を軽くかわして、身軽にもっと先へと進んでしまう。だが大切な視点がある。吉増剛造のこの一見移り気な身軽さは、彼の詩への生真面目さ、真摯さから滲み出たものであるということだ。
本書の終わり付近の座談会の中で、林浩平はこう呟いている。
しかも加速している。やっとつかまえた、と思っても、もう先に行ってしまっている。
同感である。
もはや老境にある吉増剛造は、しかし、その感性に於いて、いつまで経っても若々しい。今も、そしてこれからも、現代詩のトップランナーとして、彼は最先端を疾走し続けるのだろう。
我々はそれを追いながら、とぼとぼとしかし必死に、後をついて行くしかない。
だがそうする事で、私たちは今迄見たこともない景色を目撃する事が出来るのだ。
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