20220530

歌うキノコ

キノコと題されているが、椎茸も松茸も出て来ない。出てくるのは地下生菌であり、変形菌であり、冬虫夏草。それとそれらの宿主たちだ。


著者は生物学者だ。私たち地質学者は自分を地質屋と称する。同じ様に生物学者は自分を生き物屋と称している。その生き物屋の中でも、この本で紹介されているのは極めてマイナーな存在だ。それぞれ地下生菌屋、変形菌屋、冬虫夏草屋と自分を呼んでいるらしい。

著者は冬虫夏草屋のひとりだ。

著者は子供の頃、海岸で貝殻を拾っていて、生物の世界にのめり込んで行ったと言う。この辺り、非常に親近感を覚えてしまった。そうなのだ、研究者になるような人間は、人生の矢鱈と早い時期に、ちょっとしたきっかけから自分の進路を決めてしまう。

だが、著者は貝殻に興味を抱いても、一目散にそれに向かって突き進んだ訳ではない。小学生高学年頃からは虫に嵌り、一時植物にも熱中し、…と生き物好きは一貫していたものの、どんな生き物を対象とするかと言う点に関しては横道にそれてばかりだったと言う。

著者は対象とする生き物を見つける目を持つ事を「眼鏡をかける」と表現する。

生き物屋の「症状」からわかるように、人はそれぞれ、見ている世界が違っている。つまり普段は見えていない、気がついていない別世界が、本当は目の前に存在していたりする。そんな別世界に気づくには「眼鏡」を掛ける必要がある。

地質学をやってきて、矢鱈と山には入ったが、私は地下生菌も変形菌も冬虫夏草も見つけた事はない。だが同じ山に入りながら、著者らはかなりの頻度でそれらを見出す。余程度の合った「眼鏡」をかけているのだろう。その眼鏡をかけることで、彼らは私たちに見えない世界を見ているのだ。

冬虫夏草眼鏡に加えて、地下生菌眼鏡をかけるようになった著者が、ずっとかけることを憧れていたのが変形菌眼鏡だという。

変形菌と言えば明治から昭和初期にかけて活躍した南方熊楠が、生涯追いかけていた生き物として知られている。

著者が変形菌に惹かれたのは増井真那の『世界は変形菌でいっぱいだ』という本を読んだのがきっかけだったらしい。この増井真那さんは5歳の時テレビで変形菌を見て取り憑かれ、たちまち変形菌屋の集まりである日本変形菌研究会にも入会、そして16歳で本を出版するという輝かしい(?)キャリアの持ち主だ。その彼には世界は変形菌でいっぱいに見えるらしい。これぞ変形菌眼鏡の効果の極地だろう。著者は変形菌好きは皆、子実体に魅力を感じるものと思い込んでいた。ところが真那さんは変形菌の変形体を飼育する事に情熱を注いでいる。そうした興味の持ち方を見ているうちに、著者は変形菌を一面的にしか見ていなかったことに気付かされたと言う。

さて、虫と言うものは結構偏食だ。モンシロチョウの幼虫はキャベツを食べてもミカンには見向きもしない。アゲハの幼虫はミカンの葉をせっせと食べてもキャベツには見向きもしない。セミは幼虫も成虫も樹液を飲んでいるばかり。それも栄養の少ない道管液しか飲まない。アブラムシやカメムシも種類によって決まった植物の汁を吸って暮らすものが多い。

こうした特定の栄養源のみに頼っている場合、栄養に偏りが生じる事は容易に理解できる。

植物の新芽にはアブラムシがよく群がっている。アブラムシが餌としているのは、植物の師管液だ。師管液には植物が光合成で作り出した糖分は豊富に含まれているけれど、タンパク質を作るためのアミノ酸は不足している。アブラムシは体内にブフネラと呼ばれるバクテリアを矯正させていて、この共生バクテリアが不足し勝ちな栄養を補う形になっている。

驚くのはセミに見付かった共生菌の遺伝子を系統解析したところ、冬虫夏草の仲間だということが分かった事だ。それも遺伝子が近縁のもの同士を並べて行くと、セミの体内で見付かった共生菌と冬虫夏草が入れ子状態になるという結果となった。つまり、セミ体内で見付かった共生菌は、どうやら元々はセミの幼虫に取り憑いて殺し、子実体を伸ばしていた冬虫夏草だったらしい。セミの体内には寄生者が変身した共生者が棲みついているいる。セミはそのおかげで道管液だけを吸って暮らし、街中でも多数発生が見られるほど繁栄しているのだ。

本書を読んで、今まで知らなかった地下生菌、変形菌、冬虫夏草には矢鱈と詳しくなった。同時に生物の体内にはバクテリアや菌類が多数棲みついている事も知った。

これから夏を迎え、煩いほどセミの声がする事だろう。だが、その声も昨年までとは全く別なものに聞こえてくるだろう。そうなのだ、そのセミの声は多数の生き物の合唱なのだ。

20220523

カントの人間学

かなり昔の話だが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を入手した時、Mさんから3回読んだが分からなかったと忠告された事がある。確かに分からなかった。フーコーは『言葉と物』を2,000人を対象に書いたと言われているが、私はその2,000人の中には入れなかった。だが、いつの日か読める様になりたいと、強く思った。

FBでその事を話したところ、まずは博士論文から入ると良いという助言を得た。『言葉と物』に向けてフーコーを順番に読んで行こうと言う計画が始まった。

フーコーの博士課程主論文は『狂気の歴史』だが、これも敷居が高そうなので、副論文『カントの人間学』から入ってみようと思っていた。

今回、意を決して『カントの人間学』を読んだ。


『人間学』は未読だが、カントならばそれなりに一通り目を通した事がある。大丈夫だろうと高を括って手を出したのだが甘かった。

フーコーは博士副論文から難しかった。

『言葉と物』とは違い、意味が拾える言葉で書かれている。なのでどうにか活字を追う事はできるのだが、扱っているカントのレベルの高さと守備範囲の広さが尋常ではないのだ。しかも思想的背景としてニーチェやハイデガーが仄めかされてる。

つまりこの本を理解しようとするのなら、カントを全集で何回も読み深め、ニーチェ、ハイデガーもノートを取りながら熟読した上でなければ歯が立たない。そうした論文らしいことだけは理解出来た。

もともと博士課程副論文は、出版されることはないのが通例だ。つまり、この論文は世間の人に読まれるという前提で書かれたものではない。どちらかと言うと、論文を査定する指導教官に向けてのみ書かれたものだと言っても良いのだろう。

だが、最初おずおずとカントの『人間学』と『純粋理性批判』の関係を論じていたフーコーが、8章あたりから強気になり始め、自分の見解をどしどしと詰め込み始めたのは、読んでいて痛快だった。

フーコーとハイデガーの近さと遠さは、それぞれのカント論の構図を対比してみればはっきりするだろう。「批判」から「人間学」を介して「超越論哲学」ないし「基礎的存在論」へ、という三項図式は両者に共通しているけれど、フーコーは三つの点でハイデガーから距離をとっている。第一に、ハイデガーにとって「基礎的存在論」は自分自身が取り組むべき仕事であるのに対し、フーコーは「超越論哲学」をカントの最晩年の仕事の中に見出す事。第二にハイデガーにとって「人間学」は「批判」から「基礎的存在論」に至るまっすぐな通路であるのに対し、フーコーは「人間学」に「批判」の反転=反復を認めること。第三にハイデガーがカント『論理学』の「人間とは何か」という問いから読み取られた「哲学的人間学」の構想に注目するのに対し、フーコーはあくまでも「世界=世間」の中で「人間は自分自身をいかになすべきか」を問うカントの『実用的見地における人間学』にこだわること。

要するに、フーコーが考えるカントは、ハイデガーが考えるカントよりもう少し徹底的で、もう少し屈折しているのだが、そんな徹底性も屈折も、どこまでも実用的な『人間学』から来るというのだ。

フーコーは博士課程主論文『狂気の歴史』、副論文『カントの人間学』を発表した後、怒涛の勢いで私たちには周知の数多くの著作を発表していった。起伏の激しいその行程が、「知」から「権力」へ、そして「自己」へと言う、断続的な問題設定を伴うものであったことも、比較的良く知られているが、その始まりに、このようなカントへのこだわりがあった事は、あまり知られていないのではないだろうか?

活字の数を数えるような読書体験だったが、それなりに深い感慨を伴う行程になった。読んで良かったと思う。

20220518

パンダの親指

 前作『ダーウィン以来』も面白かったが、著者スティーヴン・ジェイ・グールドが彼のエセーの手応えをしっかり掴んだのは、本書『パンダの親指』からだったのではないかという感触を得た。導入のエピソードを選択するセンス、その掘り下げ方、各章の全体像をはっきりと打ち出す統一感が、格段に違うのだ。


パンダは何故手に6本の指を持っているように見えるのか?ダニのヌンク・ディミッティスは何故母親の胎内にいる間に交尾を済ませ、死んでしまうのか?何故ミッキーマウスが可愛らしく、悪役のモーティマーが憎らしく見えるのか?世紀の詐欺事件、ピルトダウン事件にテイヤール=ド=シャルダンは本当に関わっていたのか?ダウン症の事を「蒙古症」と呼ぶのは何故か?


こうした話題を通して、生物体の「不完全性」が、進化を見事に説明し得る事を、白日の元に明らかにして行く。その手腕はやはり只者ではない。

自然史のエセーというものは動物たちの特異性、たとえばビーバーの不可解な工事の仕方とかクモがしなやかな網を編む方法とかを記述するだけにとどまることが多い。たしかにそこには楽しさがあり、そのことを否定する人はいない。しかし、生物はみなそれよりはるかに多くのことをわれわれに物語ることができる。つまり生物の形態や行動は、それを読みとることを知ってさえいれば、一般的なメッセージを表現している。そして、この教えに用いられる言語は、進化論にほかならない。楽しさプラス説明が肝要なのだ。

プロローグにある著者のこの言葉は、本書の性格を最も端的に言い表している。

著者は、豊かな着想と非常に興味深いさまざまな話題を駆使しつつ、このエセー集を統一感のある全体としてまとめた。言い換えれば、本書はクラブサンドウィッチ式の構成m、つまり基礎となる4枚のパン(第一部、二部、五部、八部)に、肉や野菜の層を挟み込んだ構成になっている。そのパンとは生物進化の証拠、ダーウィン進化論と適応の意味、生物が変化する際のテンポと時間、生物の大きさと時間の尺度の関係である。

さらに著者は、このサンドウィッチを一本の爪楊枝─全てのセクションに通じる副次的テーマ─で刺し通した。それは文化的偏見と科学が不可分の関係にあるという認識で、この認識なくして科学を理解することは不可能だと、著者は主張している。

20220509

系統樹・分類思考の世界

『哲学する漱石』という夏目漱石と清沢満之の思想的関係を論ずる、哲学なのか文学論なのか宗教論なのか分からない本を読んでいた。実は清沢満之が出て来た時点で、この本は一度挫折している。私は清沢満之が大の苦手なのだ。読む時間が確保出来たので、再挑戦する事にした。何とか読み切った。だが分かったかと問われれば答えに窮するしかない。

私は清沢満之が言っている事が、腑に落ちた試しがない。

絶対的束縛即絶対的自由と言われても、日本語としては理解出来るが、その通りだ!と膝を叩くには至らない。

漱石の則天去私を理解するには、清沢満之の思想を理解する必要があると言う。

そうだったのか!これは困った。

どうやら私は夏目漱石を理解するにも至っていなかったようだ。

名指しで文学がわからない奴と言われたようで、どうにも不快感が残る読書となった。

何だか自分の読解力が元々なかったような気にもなって来て、どうにも収まりが付かない。突破口をどこかに求めなければと言う気分になった。

突破口として選んだのは、三中信宏さんの『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』だ。この2冊を一気読みする事を、いつか実現したいと思ってもいたのだ。

世界は多様性に富み、万物は流転している。そうした世界に私たちは生きている。生きている限り、私たちは世界を認識しようとする。

流転し、無常な世界をつらつらと眺めてみると、至る所にダーウィンの言う「変化を伴う由来(descent with modification)」を見出すのに、さほど苦労は要らないだろう。それらを時間軸に従って追跡してみると、そこには様々な系統が認められる。その系統を図に表現したものが系統樹なのだ。


『系統樹思考の世界』の中で、最初に強調されているのは、「進化」するのは〈生きもの〉だけではないということだ。

生物と無生物の別に関係なく、自然物と人造物のいかんを問わず、過去から伝わってきた「もの」のかたちを変え、その中身を変更し、そして来たるべき将来に「もの」が残っていく。私たちが気づかないまま、身の回りには実に多くの(広い意味での)「進化」が作用し続けています。

系統樹思考の考え方は、文系・理系の垣根を超え、様々な「もの」を理解する上で、強力な道具となる事が示唆されている。

本書では更に、歴史を「科学」として理解してゆく上で、アブダクションと言う推論の方法が有効である事が紹介されている。

物理学や化学など典型的な科学では演繹(deduction)と帰納(induction)と言う二種類の推論方法が用いられる事が多い。

第一の演繹では前提となるある主張から、論理的に別の主張を導くというタイプの推論だ。数学を思い浮かべると良いだろう。「この三角形は正三角形である」と言う命題からは、「この三角形は二等辺三角形である」と言う別の命題が演繹される。演繹的な論証の特徴は、前提となる命題が真である限り、そこから演繹された命題もまた真であるという点だ。

第二の帰納とは、観察されたデータを蓄積する事により、真である普遍法則が導かれるというタイプの推論だ。

ここで重要な論点が提起される。それは「データと理論の間にはどのような関係があるのか」という問題だ。生物学や地質学などでは、「経験に照らす」事が不可欠だ。だが、私たちが得る「経験(データ)」が完全無欠であることを、それは意味していない。むしろ、仮説や論理が間違う可能性があり、一方観察データもまた誤りや不確かさを含んでいるかも知れない。たとえ確実な観察データがあったとしても、対立仮説間の「真偽」に決着を付ける事は必ずしも出来ないし、そうする必要もまたない。私たちはデータと理論のいずれに対しても「真偽」を問う事はない。理論がデータと矛盾していれば「偽」、整合していれば「真」というような強い関係を仮定するのではなく、もっと弱い関係を両者の間に置こうという事だ。

ここで言う「弱い関係」とは、観察データが対立仮説のそれぞれに対して様々な程度で与える「経験的支持」の大きさを指している。

データと理論の間に想定されるこの「弱い関係」は、演繹でも帰納でもない第三の推論方法だ。

データが仮説に対して「経験的支持」を与えるとき、同じ現象を説明する複数の対立仮説の間で、「支持」の大きさに則ったランク付けをすることが出来る。あるデータのもとで、最も大きな「支持」を受けた最良の仮説を頂点とする序列だ。そして、経験的支持のランクがより大きい仮説を選ぶという基準を置くことにより、仮設選択の方針を立てることが可能になる。19世紀の哲学者にして記号論の創始者であるチャールズ・S・バースは、与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」推論方法を「アブダクション(avduction)」と名付けた。

理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する─アブダクション、すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは、幅広い科学の領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。

さて、多様性に満ち溢れた世界。その世界を認識する時、私たちはどのように世界に立ち向かうのか?それを論じたのが『分類思考の世界』だ。


「系統樹思考」が「タテ思考」ならば「分類思考」は「ヨコ思考」である。分類思考は、オブジェクトの時空的な変遷に目を向けるのではなく、ある時空平面で切り取られた「断面図」のパターンを論じる。たとえば、生物多様性を分類思考的に論じるとすると、ある時点に特定の場所で観察される生物相(動植物の全体)が織りなすパターンを考えることになる。

系統樹思考が推奨される思考方法だったのに対し、分類思考は「ついしてしまう」思考形態とされている。

確かに私たちは生物のみならず、様々な「もの」をつい分類してしまい、そうする事で分かった気分にもなれる。私たち人間にとって分類することは根源的な行為のひとつである。「分類するは人の常(To Classify is human)」とは格言そのものだ。

だが、その分類を科学として行おうとすると、思わぬ難題に突き当たる。例えば「種」とは何か?

この様な基本的な事柄についてすらも、現代科学は結論を得ていない。

それらの難題に対して、本書は科学者にとっては禁忌とも言われている形而上学にも果敢に深入りして、分類を考察して行く。

狂言回しとして引き合いに出されるのは、アルチンボルドでありモーニング娘。であり、果てはNHK全国学校音楽コンクール課題曲であったりする。

私たちがついしてしまう分類という行為も、まともに考え始めると、ここ迄深くなるのかと驚く程、多元的な考察が繰り広げられている。

今回『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』を通読して感じたのは、三中信宏さん自身が『分類思考の世界』のプロローグで仰っている事に尽きる。

私の基本的な主張は、「タテ思考(系統樹思考)」と「ヨコ思考(分類思考)」はともに重要な車の車輪であるという点にある。多様なオブジェクトがかたちづくるタペストリーとして世界を理解するためには、そのタテ糸とヨコ糸を解きほぐしてみる必要があるだろう。系統樹思考と分類思考では問題設定がそもそもちがっている。どちらかひとつで事足れりというのは短絡的な考えといわねばならない。

読んでいて、思わず胸が躍った。お陰でようやく清沢満之の毒を、身体から抜く事が出来た。