「謝辞」で詳しく述べられている様に、本書は昨年出された『読む・打つ・書く』の子孫本と位置付けられている。私は『読む・打つ・書く』を昨年の7月に読んでいる。なので良心の呵責なく、本書に取り掛かる事が出来た。
だが、読み始めてすぐ、顔面を痛打されるような思いに出くわされることとなる。いきなり陶淵明の漢詩、雜詩其一が出て来るのだ。しかもその漢詩には真逆とも取れる2種類の和訳を当てられている。
読むという行為には大きな”落とし穴”があると私が言ったのはまさにこれだ。「歳月不待人」という漢文をたとえ私たちが読み下せたとしても、そのほんとうの意味や背景まで読み解けたわけではない。ほんのわずかな部分(一句5字)だけを見て、性急に全体(5字×2×8行×6行=60字。の意味を理解しようとすると、前に指摘された思わぬ”落とし穴"にはまってしまうことがある。すでに読み終えた部分からまだ読み終えていない全体について何かを推論することはつねにまちがいを犯すリスクを背負っている。
文字が読めたとしても、本を読んでいる事にはならないという事の例として、陶淵明の漢詩は使われているのだ。
ところが著者の三中信宏さんは読書とはつねに「部分から全体への推論(アプダクション)」であると主張している。
本の読み手は、既読の部分を踏まえて未読である本全体に関する推理・推論をたえまなく問い続ける。その推理・推論の対象である”全体”とは、その著書から読み取れる著者の主張を解釈することだったり、ある著者が依拠する知識全体を包括的に理解することだったりするだろう。
三中さんは本を選ぶ際、陥りがちな効率主義を注意深く避けている。本書は世にはびこる「読書効率主義」とは正反対のベクトルを志向するという。私に異論はない。望むところだ。
お手軽に知識を得る道はまちがいなく”地獄”に通じている。
私もそう思う。
本は広大な文字空間である。それを一望のもとに見わたすことは、それがとりわけ分厚い大著や専門書を手に取る時、読者はいま読み進んでいる部分が全体の中のどのあたりの位置を占めているのかに気をつけるよう心がけると、途中で挫折したり予期せず遭難したりするリスクを減らせるのではないか。そう三中さんは仰っている。
その例としてチャールズ・ダーウィンの『種の起源』が取り上げられている。
私にとって嬉しかったのは、遥か昔紹介されて(その時の紹介者も三中信宏さんだったと記憶している)以来行方不明になっていたベン・フライによる『種の起源』のインフォグラフィックのリンクが示されていた事だ。
ベン・フライによる『種の起源』各版の加筆修正プロセスの可視化(1)
ベン・フライによる『種の起源』各版の加筆修正プロセスの可視化(2)
このインフォグラフィックによって私は『種の起源』は各版によって、全く違う本と言って良い程書き替えられていた事を知った。
三中さんはインゴルドを引きつつ、読書は狩りであると表現する。
狩猟者としての読書を遂行するに当たって、三中さんはその読書のチャートとなるべく、目印或いは痕跡としてのノードを残す事を勧めている。
本のマルジナリアにあれこれ書き込んだり、備忘のための付箋紙を貼り付けたりする行為だ。
圧倒的な極貧に喘いでいる私は、現在本を買う事を禁じられている。本は専ら図書館を利用して工面している。なのでマルジナリアにメモを書き込む事は出来ない。印字が剥がれる恐れもあるので、付箋紙も利用しない。しかし昔購入しておいたブックダーツという薄い金属製のクリップをページに挟む。これをするかしないかによって、その読書の質は大きく違って来る。読書にノードは必須なのだ。
更に三中さんはこれらのノードを互いに結びつける連鎖として、「チェイン」、階層構造を示す「ツリー」、そしてより複雑な「ネットワーク」を提唱する。
これによってひとつひとつの断片だったノードが、まとまりを持った体型とみなす事が出来る様になる。
ここを起点として三中さんは続く章を用いて、読書に関わる様々な大技・小技を紹介して下さる。例えば
(1)一歩ずつ足元を見て先を進む
(2)ときどき休んで周囲を見回す
(3)備忘メモをこまめに書き残す
どれも非常に参考になる態度だ。
更に自己加圧ナッジとして、twitterを使った読書メモを公開している。
このtwitterを使った自己加圧ナッジは、今読んでいるスティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造』を三中さんがお読みになっている時目撃し、大変参考になった。
中学生の頃、現代国語を教えて下さった松岡先生は、授業の時、教科書の文章を各段落に分け、段落毎の要約を書かせるという作業をずっと繰り返し続けて下さった。最後の授業の時、先生は、これから先何冊も本を読むだろうが、やることは、今まで授業でやって来た事に尽きるとおっしゃっていた。その通りだと思う。
文章を各段落に分け、その段落に書かれている事を短かな言葉にまとめて、それを更に幾つかの段落をまとめたものに応用して行く。そうした地道な作業を繰り返して行くしか、本の内容を理解する方法はない。
三中さんの自己加圧ナッジも、それをtwitterを用いてやるという事であって、誰でもやる事は基本的に通じ合うものだという思いを深くした。
本書を通じて、三中信宏さんは、自分がどのようにして本と付き合って来たかを開陳して下さっている。それぞれの読み方は、全てを真似できるものではないが、大いに参考になった事は間違いない。
耳の痛い提言もあった。数式を言葉として読むように三中さんは指導していらっしゃる様だが、私は過去数十年の間、それを目指しながら未だに出来ずにいる事だからだ。だが、これも無闇に先を急がずに数式をじっくりと噛み砕きながら読めば、実践可能な事の様にも思える。機会を見つけて試みてみよう。
本の狩猟の仕方を解いてきたこの本も、第4章に至って、面白い方向に進路を取る。読まない事も読書だと言うのだ。
この本『読書とは何か』は当初『一期一会の読書術』と言う題名だった。この辺りの感覚は、少し本に親しんで来た者には、直感的に理解出来る筈だ。本との出会いはまさに一期一会の運命に似た出逢いそのものなのだ。読書家はその事を体験的に理解している。と言う事は、既に手元にあっても、その本との出逢いの時はまだ熟しておらず、もっと先である事もあると言う事だ。
それは取り逃した狩りなのかも知れないが、そうした狩りも世の中にはあろう。
私は図書館から借りたものの、読む機会を逃し、読まずに返却してしまった本を多く抱えている。それは図書館の貸し出しカードとして、手元に残っているが、毎月新しい本を予約するため、リベンジ出来たものは数を数えられる程しかない。まして今の様に読むのに数ヶ月を要する本を抱え込んでしまった時などは、読み逃した本だらけになる。県立・市立の両図書館から本を借りているが、1月の本は自分でもワクワクする程充実したものだった。だが、にも関わらず、その殆どを読まずに返却してしまった。そうした本は見逃した夢のように、記憶が身体に染み込む。そうした出逢いもまた現実としてあるのだ。
私がamazonで開いている仮想本屋の店名は蟻書房という。蟻が餌をひとつずつ巣に運び込むように、私も一度に一冊ずつしか本を読む事は出来ない。そうした自省を込めた心算だ。毎日、読んでみたい本は見つかる。私は図書館からそれを借りるべく、ノートにそれらを纏めている。もうそのノートも4冊目になった。当然の事ながら、本を読むスピードより、本を見付けるスピードの方が早い。読むべき本はどんどん溜まってゆく。
圧倒的に時間が足りない。
だが、何事にも言える事だが、焦りは禁物だ。
蟻書房発足の初心に常に帰って、一冊ずつ本を読む行為を繰り返してゆくしかなかろう。
その時私は、本に対し、どれだけ狩猟者の姿勢を保っていられるだろうか?
本書『読書とは何か』は、幾つもの本読みのヒントを示してくれたが、私に与えられた最大の指針はその事だった様に思える。
読書は探検であり、旅でもある。そして読書は常に狩りなのだろう。読書の世界は、ひとりでは尽きせぬ程広大だ。だが、読書は常に孤独な行為でもある。その孤独な行為を、本書はそっとしかししっかりと支えてくれる存在であるように、今は思えている。