題名にガールズとあるが、このコノテーションの意味するところは、普通用いられている10代の女の子という意味よりもっと複雑な対象を意味する。より広い範囲の女性を意味していると見て良いと思う。
10人の論客による、11章のガールズとメディアに関する考察を纏めた論集である。その守備範囲は、映画、テレビと言った、既存のメディアからダンス、SNS、Zineと言った、目新しいメディアに至る迄とても広い。
ともすれば散漫になりがちな内容に統一感を持たせる為か、各章の冒頭に、扱うテーマや現象について説明する導入部がコラム的に付けられており、次に具体的に現象や事例を分析するためのデータや資料の提示、そしてそれぞれの現象や事例を分析するために必要な理論、もしくは学説の紹介、そして最後に調査結果の提示とまとめが来るように、構成が統一されている。その為、とても分かり易く、読み易い論集になっている。この構成は、読者が自ら論文をまとめる上でも、良き導きになるだろう。
本書は、大きく2つのパートによって構成されている。
パート1「表象と解釈」では「ガールズたちはどの様に表象され、どの様に解釈されて来たのか?」という問いに基づいて、メディア文化空間における、若い女性の表象について考え、既存の表象に対する批判的な眼差しを養成するための論考が集められている。
パート2「交渉と実践」では「ガールズたちはどの様に既存の社会と交渉し、自分自身を表現しているのか?」という問いに基づいて、紙や映像など既存のメディアだけでなく、デジタル・メディアやソーシャルメディアを用いながら、自己表現や社会運動に携わる若い女性たちの実践、場合によっては「フェミニズム」との交渉のプロセスについて明らかにしてゆく論考が集められている。
どの論考も生き生きとしていて、瑞々しく、非常にエキサイティングだったが、中でも東園子さんの「女子高生ブームと理解による支配─援助交際をする〈美少女〉」という論考で指摘されている、「他者を理解することを通して、他者を自分の思い通りにしたり、他者より優越したりしようとする」マチスモのあり方を指す、「理解による支配」という概念は、自分自身思い当たる節もあり、非常に惹きつけられた。
本書の概要は、田中東子さん自身による総括論文、11章の「女の子による、女の子のためのメディア研究に向けて」に非常に良く纏められている。
共有されている視座とは、ひとつには若い女性たちを表象し、意味づけようとする、主流のメディア文化による、権力の作用を分析するというものである。それから、女の子たちによるメディア文化を通じた表現や実践が、商業メディアへの抵抗やエンパワメントの可能性となる瞬間を、捉えようとする試みである。
つまりそれぞれの章は、メディア文化への女の子たちの従属や抵抗、もしくはそれとの交渉の瞬間を、その可能性と限界のどちらか一方に、身を預けて論じるのではなく、むしろその両軸の間で揺れ動く振り子の軌道を丁寧に追いかけ、その意味を読み解こうとしている。
この総括論文がなかったら、私はかなり大きな誤読をしたまま、この本を閉じていたかもしれない。
7月の終わりに、かなり充実した読書体験をする事が出来たと思っている。