20210731

ガールズ・メディア・スタディーズ

 題名にガールズとあるが、このコノテーションの意味するところは、普通用いられている10代の女の子という意味よりもっと複雑な対象を意味する。より広い範囲の女性を意味していると見て良いと思う。


10人の論客による、11章のガールズとメディアに関する考察を纏めた論集である。その守備範囲は、映画、テレビと言った、既存のメディアからダンス、SNS、Zineと言った、目新しいメディアに至る迄とても広い。

ともすれば散漫になりがちな内容に統一感を持たせる為か、各章の冒頭に、扱うテーマや現象について説明する導入部がコラム的に付けられており、次に具体的に現象や事例を分析するためのデータや資料の提示、そしてそれぞれの現象や事例を分析するために必要な理論、もしくは学説の紹介、そして最後に調査結果の提示とまとめが来るように、構成が統一されている。その為、とても分かり易く、読み易い論集になっている。この構成は、読者が自ら論文をまとめる上でも、良き導きになるだろう。

本書は、大きく2つのパートによって構成されている。

パート1「表象と解釈」では「ガールズたちはどの様に表象され、どの様に解釈されて来たのか?」という問いに基づいて、メディア文化空間における、若い女性の表象について考え、既存の表象に対する批判的な眼差しを養成するための論考が集められている。

パート2「交渉と実践」では「ガールズたちはどの様に既存の社会と交渉し、自分自身を表現しているのか?」という問いに基づいて、紙や映像など既存のメディアだけでなく、デジタル・メディアやソーシャルメディアを用いながら、自己表現や社会運動に携わる若い女性たちの実践、場合によっては「フェミニズム」との交渉のプロセスについて明らかにしてゆく論考が集められている。

どの論考も生き生きとしていて、瑞々しく、非常にエキサイティングだったが、中でも東園子さんの「女子高生ブームと理解による支配─援助交際をする〈美少女〉」という論考で指摘されている、「他者を理解することを通して、他者を自分の思い通りにしたり、他者より優越したりしようとする」マチスモのあり方を指す、「理解による支配」という概念は、自分自身思い当たる節もあり、非常に惹きつけられた。

本書の概要は、田中東子さん自身による総括論文、11章の「女の子による、女の子のためのメディア研究に向けて」に非常に良く纏められている。

共有されている視座とは、ひとつには若い女性たちを表象し、意味づけようとする、主流のメディア文化による、権力の作用を分析するというものである。それから、女の子たちによるメディア文化を通じた表現や実践が、商業メディアへの抵抗やエンパワメントの可能性となる瞬間を、捉えようとする試みである。

つまりそれぞれの章は、メディア文化への女の子たちの従属や抵抗、もしくはそれとの交渉の瞬間を、その可能性と限界のどちらか一方に、身を預けて論じるのではなく、むしろその両軸の間で揺れ動く振り子の軌道を丁寧に追いかけ、その意味を読み解こうとしている。

この総括論文がなかったら、私はかなり大きな誤読をしたまま、この本を閉じていたかもしれない。

7月の終わりに、かなり充実した読書体験をする事が出来たと思っている。

20210723

通訳者たちの見た戦後史

 『戦後史の中の英語と私』文庫版改題。

最後に阿部公彦による解説が付けられている。これ以上の書評を書く事は、私には出来ない。本書を手に取って、本文も含めてお読み頂くしかない。


月面着陸の生中継で、同時通訳者として華々しく脚光を浴びた著者の、そして著者を含む同時通訳者たちのオーラル・ヒストリーになっている。彼等はどのように英語と出会ったのか、そして、同時通訳者という分野をどのように開拓して来たのかが語られている。それはまさに戦後日本の辿った現代史そのものと言って良い。

終戦の開国と共に、彼等は英語と激しく出会っている。

それにしても、鵜飼さんは人生の脚力のある方だ。彼女は自分の人生を振り返り、それが偶然の積み重ねだと謙遜する。

だが、その人生の偶然の節目節目に、彼女の大胆な決断力が光る。

上智大学外国語学部のイスパニア語学科に入学してからの、彼女の行動もそうだ。大学ではどうしてもイスパニア語の勉強が中心になる。そこで英語の方が錆び付いては困ると「英語を使ってアルバイトをすれば良いと考えた」。普通そう考えるだろうか?そこで「通訳案内業国家試験」を受験して合格し、資格を取ると、観光ガイドの仕事を始めた。ところが日光の東照宮に行くと、道に迷って帰りの電車に乗り遅れ、車に乗れば真っ先に酔ったという。

方向音痴で車酔いする私にはどうもガイドの仕事は向いてないというのが分かってきた。他に何かないかと大学の掲示板を見ていたら「国際会議アルバイト募集」の張り紙があったので応募した。

これを機会として彼女は本格的なプロとして通訳のステップを歩み始めることとなる。

若い大学生には知らない事だらけで、先行きもはっきりしなかっただろうが、取り敢えず飛び込み、厳しい試練に耐える胆力には、驚かされる。

恐らく、今の鵜飼にとっては、日本の英語教育がこれからどうなってゆくのかという問題が、一番の関心事だろう。今後の英語教育を支えるべきは、以下の3つの理念だと、彼女は考えている。

  • 日本というコンテクストで外国語としての英語を学ぶという視点から英語教育を考えたいということ。
  • 英語ネイティブ・スピーカーを理想のモデルとして模倣したり、規範として追従するのではなく、非母語者同志のコミュニケーションという視点を持つ事。
  • どのような生徒であれ学生であれ、或いは年配者であれ、英語を使えるようになることは誰にでも可能だという事。

この3つの理念を堂々と自信を持って掲げることができるのは、やはり著者が歩んで来た道ががあればこそだ。

その意味で、最終章の「思い込みからの脱却」は、大きな示唆に富む、優れた道案内になっていると思う。

20210720

読む・打つ・書く

読む前に抱いていた予測を、心地よく裏切ってくれた。

題名を最初に見て、予測していた内容は、筆者三中信宏さんがこれまでに書いた書評を、ただ単に並べたような、そんな内容だと思っていた。

いや、確かに幾つかの書評は引用されている。だが、それは本書の内容を補足する為に、具体例として引用されたものであり、その量も限られている。

それでは本書の内容とは何か?それを私は筆者がいかに利己的に本と付き合って来たかという事にまとめられるのではないかと密かに思っている。

本書の概要は、プレリュードの「本とのつきあいは利己的に」に示されている。1.読むこと─読書論の冒頭で筆者はアルベルト・マングェルやアンドレ・ケルテスを引いて、読書を「この上なく私的な営みとしての読書という行為は、究極の利己性を帯びている」と断言している。その上で、筆者は、多少なりとも一般化できる本の読み方として、「本は余さず読み尽くす」ということを提唱している。これに対置される読み方としては、「拾い読み」があるだろう。電子化が浸透しつつある昨今、本や雑誌(学術誌)を丸ごと読み尽くすことは稀になって来ている。それは雑誌のみに止まらず、本の世界にも浸透している。丸ごと読むのではなく、必要部分だけを切り出して、拾い読みすれば良いという風潮は、読む側にも読ませる側にも広がっているというのだ。


次に読書の必須の行為として、本を読んだら必ず書評を打つように心がけることを推奨している。

過去10年以上に渡って、三中信宏さんの書評は、私の読書の、良き水先案内人であった。それは、本を(貧乏で)買えなくなった今も続いていて、書評を読んでは、その本を図書館に買わせて読むというスタイルが定着している。筆者は「書評とはいえ、読者のための紹介ではなく、自分のための読書備忘メモとして書き綴った記事ばかり」と書かれているが、少なくとも私には、極め付けで役に立っている。

筆者は日本では「理系の本」を書評する人が圧倒的に少ないと喝破する。新聞や雑誌の誌面書評でもあるいはブログなどで公開されるネット書評でも、概して「理系の本」の書評に出くわす機会はとても少ないと仰る。

この点は私も常々実感してきた事だ。この希少性故に、私は三中信宏さんの書評のファンであり続けたのかも知れない。

筆者は、書評をするということは、書かれたものに対して、自分の見解を重ね合わせた比較評論が基本だとずっと思いこんでいたと言う。

この点に関しては、私は反省するしかないだろう。私の書評は、本の内容を紹介する、典型的なブックレポートであって、三中信宏さんが仰るような書評には程遠い。

更に筆者はピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を引いて、ある本を読むということは、実はその本だけを読んでいるわけではなく、その本を取り巻くある文化的コミュニティを解読することに等しいと指摘する。

ある特定の本の背後には、それを取り巻く、無数の本の世界が広がっているというわけだ。

それは本を書く際にも言えることで、「一冊の本を書くことによって、細かく断片化された科学知識をひとまとまりの体系化された科学的母体へとつなげられるのではないかと私は期待している」と仰る。

この部分を読んで、私は三中信宏さんの本がなぜ面白いのかの秘密を垣間見た気持ちになった。

他にもこの本には、本を読む事、書評を打つ事、本を書く事に関しての、重要なヒントに満ちている。三中信宏さんは、事あるごとに「自分のため」を繰り返すが、その姿勢を貫き通す事によって、本書は読者にとって良き指南書にもなっているのだろう。

20210705

COVID-19ワクチン2回目

1日様子を観察する事にした。
1回目より2回目のCOVID-19ワクチン接種の方が、副反応が激しく出ると聞いていた。1回目は何事もなかった。2回目の今回、流石に何らかの副反応が出るのではないかと警戒したからだ。
だが、結果として今回も何事も起こらなかった。腕の痛みは勿論の事、重く感じる事もなかった。
流石にここ迄何事もないと、逆に心配になってくる。私の接種したものは、本物のワクチンだったのだろうか?果たしてワクチンは効いているのか。
副反応で発熱した場合、解熱剤としてはアセトアミノフェンが良いという情報は、早いうちに入手していた。すぐに売り切れるのではないかという懸念から、早めに薬も入手していた。だが、発熱などはその影も形も現れて来ない。
これでは折角入手しておいた薬は無駄に終わってしまうではないか。
いや、副反応を望んでいる訳ではない。出なければ出ない方がいいに決まっている。だが不安はどこにでもくっ付いて来る。
その辺りの心理状態を、ご理解頂きたくて書いている。
多分大丈夫だと、自分を説得している。接種したワクチンはほぼ間違いなく本物であり、きちんと効いているのだ。私はワクチンの副反応に関しては、余程鈍感で、強い体質なのだろう。恐らくあと10日もすれば、COVID-19に対する抗体が、身体の中に出来て来るに違いない。
COVID-19ウィルスも、変異株が広まり始めている。δ型の変異株には、ワクチンは効きにくいと聞いている。それでは今回の接種は殆ど無駄ではないのか?そうした思いも浮かんで来る。だが従来型のCOVID-19に対しては、有効な抗体となるだろう。それだけでも接種した意味があるというものだ。加えて副反応がなかったので、万々歳ではないか。そう思う事にしている。
女房殿は打った後から腕が重くなり、昨日の夜になってからは、痛みも出始め、無理をしないと、腕が十分に上がらないと仰っていた。だが、それでも話に聞く限りでは、副反応としては軽い方だ。
我が家はCOVID-19ワクチンに対しては、無事、何事もなく通過出来たと判断して良いだろう。
私は女房殿から、本当に神経あるの?という有難いお言葉を頂いた。