20180805

再起動

6月1日以来、まるまる2ヶ月以上、手付かずで過ごしてしまった。さすがにこれではいけない!と思っている。そろそろこのブログも再起動しなければ。

この2ヶ月の間で、特筆すべきだったのは、昨年の8月30日以来、丹念に読み続けてきた、ハンナ・アーレント『全体主義の起原』を6月17日に、ようやく読了した事が挙げられる。

読み始めてから、読み終える迄9ヶ月掛かった。

最初は通常運転で読もうと思っていたのだが、書かれていることが余りに思い切った事なので、注釈に挙げられている文献にも、出来る限り目を通し、論拠を確かめながら読んだ。その結果、途方もない時間を費やして、読む結果になった。

この様な読み方をしたのは、大学時代地質学の論文を読んだ時以来の事だ。

ハンナ・アーレントの主張には、きちんとした論拠がある事を、確認出来た。

ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』は、私の中で、一際輝く特別な本になったと断言出来る。

しかし、困ったことが起きた。
丁寧に読んだのは良かったと思えるのだが、その結果、本の内容が細部まで、記憶に留まり、迂闊に感想を書くことが出来なくなってしまったのだ。

読了して以来、何度か試みたのだが、その度に私は、いちいち一冊の本を執筆するような姿勢になってしまい、挫折を繰り返した。

かと言って、無駄に読了した訳でもなかったと思う。
他の本を読む時、『全体主義の起原』は、まるで海図のような働きを果たし、本の読解の助けになってくれた。

特に山崎雅弘『[増補]戦前回帰「大日本病」の再発』
早川タダノリ『「日本スゴイ」のディストピア─戦時下自画自賛の系譜』
早川タダノリ編著『まぼろしの「日本的家族」』などを読んでいる時は、常に頭の中でハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を参照する癖が付いて、内容を深く読み込む事が出来たと思っている。

これらの本に共通するのは、日本が現在、少しずつ全体主義へと向かっているのではないかという問題意識であり、それだけに、これらの本は『全体主義の起原』を、現代日本に置き換えて受容してゆく助けにもなったと思える。

しかし『全体主義の起原』は、1回や2回読んで、済ますことが出来るような本ではないという認識も、私の中にできあがっている。

近い将来、また読み直さねばならないだろう。感想を書くのは、それからだ。

記録に残すことはなかったが、この2ヶ月の間は、貴重な読書体験や、映画体験を積み重ねていたと言える。

充実していたのだ。

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