20091228

急に楽になった

こんな事が起こるのかといった気分。半ば感心している。

すぐに元に戻ってしまうのかも知れない程あやふやな感覚だが、18時頃、楽な場所にすとん!と降りた様な感覚が訪れる。

あやふやなので記しておきたい。

あれ程しつこくつきまとっていた煙草がわたしから離れた。
今は、過去の自分が何故煙草の様なシロモノを欲しがっていたのかそれすら理解出来ない。何であんなものを吸っていたのだろう?

「抜けた」感触がある。
この感触は、いつまでも捕まえておきたい。今年のうちにこんな感触を持つ事が出来るとは、今日の夕方になる迄想像も出来ない事だった。

断煙した人は、皆、こんな感触をどこかでつかんでいるのだろうか?強制的に閉じ込められていた、暗く冷たい場所から解放された様な不思議な感覚だ。

だが、油断しない様に!
そして、あやふやさを確かめようとしない様に。
あやふやさは不安と紙一重だが、光が射し込んで来る様な期待感もまた確かにあるのだから。

20091225

それ程単純な事ではなかった

煙草は何も与えてくれない事、多くを奪う事、そしてわたし自身の人生を破壊するものである事。それをきちんと理解し、信念を変えれば、今年のうちに煙草から自由になれると思っていた。
物事はそれ程単純で甘くはなかったようだ。

今年も残り1週間を切った。
まだ、ふとした気の弛みから、煙草に引き寄せられてしまう自分を感じる。

その一部始終を書いておけば、それなりに面白いBlogになったかも知れない。実際、断煙日記になっても構わないと思った事もあった。

けれど、正直に告白してしまうと、その余裕がなかった。
兎にも角にも断煙を続ける事。その事だけで頭の中は一杯だったし、その理性も時としてぶっ飛んでしまいそうになる程、煙草への誘惑は強烈でしつこいものだった。

断煙を始める前は、せめて、吸わないからと言って、喫煙者を弾劾する様な奴にだけはなるまいと思っていたのだが、ずっと煙草について考え、どうせ考えるのであれば…と、何冊も煙草に関する本を読んで来た今となっては、かなり過激な(今のわたしには、それは日本だからだとしか思えないのだが)嫌煙原理主義者となってしまっている。煙草について知れば知る程、その理不尽な、そして厄介な存在に敵対してゆくしかなかった。

日本は余りにも麻薬に関して寛容に過ぎるのではないだろうか?今はそう思っている。


ひと月も経ったら、禁煙本は捨てるつもりでいたのだ。もう用はない、と。

残念ながら、捨て去る事が出来ずにいる。むしろ、それにすがって、綱渡りの様な断煙の日々を渡り歩いている状態が今も続いている。

この1ヶ月間、読んだ本と言えば煙草に関するものばかりだった。にも拘らず、まだ、同じ様な本を求めている。断煙に踏み切った時の気分を持続していないと、断煙そのものが途切れてしまいそうな気がしたからだ。

煙草と言う存在が、これ程厄介なものとは思ってもいなかった。

あと1週間で、煙草から完全に自由になれるとは、とても思えない。情けないが、これが今のわたしが辿り着いた場所だ。それも全身全霊を掛けて辿り着いたと言って良い。


最初に煙草を吸った時の事を、何度も思い出した。
成人を過ぎて、わたしは煙草に手を出したのだ。長い間、それを誇りにすら思っていた。だが、何と言う愚かな行為だった事か。成人に達していながら、煙草に手を出すとは!
まともな分別や、判断力もあったろうに。何故易々とそれを捨て去ってしまったのだろう?

20歳を過ぎてから、人生は辛いものになった。その辛さを一時的にでも忘れたくて、煙草に手を出したのだ。半ば、自分の人生を捨ててもいた。
その頃の自暴自棄な考えは、今も顔を出し、判断を曇らせる。

わたしは思い違いをしていたのかも知れない。
自暴自棄になったから煙草に手を出したのではなく、煙草がわたしを自暴自棄にさせ、持続的に喫煙をさせようと囁いていたのかも知れない。


今も、その囁きは止まない。少し救われるのは、その囁きに対抗する術を少し身に付ける事が出来た事だろうか?

認知行動療法が、今回、役に立った。

ほとほと疲れても来たのだが、毎日煙草の事ばかり考えて暮らしている。
世の中にはもっと、わたしを楽しませてくれる事もあるだろうと思うのだが、断煙は全くの綱渡りの様で、気を緩めた瞬間に、落下してしまいそうだ。

これでも、一時より楽になったのだ。信じがたい事ではあるが、本当の事だ。

20091209

来年は自由でいるか?

12月に入って始めた事がもうひとつある。
半端な形で挫折するのが恥ずかしく言い出せなかった。

早く言い出せば良かったと、今では思っている。そうすれば、もっと早く止められたかも知れない。


煙草を止めた。

今迄も何度か試み、全て失敗して来た。

今回は思い余って、幾つもの禁煙サイトを覗き歩き、読み比べてみた。
どうやら今迄の「意志の力」に頼る力ずくの禁煙は失敗の確率が高いやり方だったらしい。

煙草を吸うのは何故か?
それを冷静に考えてみれば、答えはひとつしかない。離脱症状を緩和したいからだ。

つまり煙草を吸いたいという気持ちは、煙草だけが作り出し、煙草だけが持続させている幻想に近い虚構。と言うより幻想そのものの気持ちだ。

煙草はストレスの解消になどならない。煙草がストレスを作り出しているのだ。


意志の力や精神力で煙草を止めようとする事は、常に煙草を吸いたいという自分に向かい合っていなければならず、ともすると煙草への渇望感を心に刷り込む作業以外の何者でもないものになりかねない。

無論、そのやり方で禁煙した人も多いだろう。だが、それは意志の力があったからこそ禁煙出来たと言うより、意志の力でやったにもかかわらず禁煙出来たと表現した方が良いやり方だと思う。


何故、煙草を吸う必要があるのか?
そんな必要は、言わなくても分かる通り、実はない。

この先一生涯煙草を吸わない事で、わたしが失うものは何一つない。


書いてみると、余りに当たり前過ぎてがっかりする。そんな当たり前の事にようやく気が付いたのだ。

もう、煙草に束縛されたくない。わたしは自由になりたい。自由になろうとする事が楽しくない筈はない。

20091201

12月は入れ歯と共に

歯医者に行って来た。

延々とスケーリングを続けて来たが、ようやく上顎の新しい入れ歯が完成した。今迄使って来たのは継ぎ足しで入れていた仮の入れ歯。それよりも左右のバランスが良く、顎にフィットしている。

だが、仮の入れ歯より大きく、やはり口の中が窮屈だ。

夕飯を食べたが、今のところ違和感はない。このまま大きな調整なしで行けるのではないか?

入れ歯を入れた事で食事は以前より楽しみの少ないものになってしまった。仕方がない。全て自らの不摂生が成した事だ。

自分の歯と同じ様な感覚を入れ歯に要求するのは無理というものだろう。

むしろ、入れ歯という挟在物をいかに上手く使いこなしてゆくかという観点から付き合って行った方が良い結果をもたらす様な気がする。

 その観点から見ると、今日入れた入れ歯はしっかりと食べ物に馴染み、調子が良い。顎に入れた力が無駄なく入れ歯に伝わり、噛みこなす作業をきちんと行ってくれる。

この事は、「動き」への結構大事な教えを含んでいる様な気がしてならない。

思いもかけなかった事だが、12月、最初に行った事は入れ歯を入れる事だった。