20091225

それ程単純な事ではなかった

煙草は何も与えてくれない事、多くを奪う事、そしてわたし自身の人生を破壊するものである事。それをきちんと理解し、信念を変えれば、今年のうちに煙草から自由になれると思っていた。
物事はそれ程単純で甘くはなかったようだ。

今年も残り1週間を切った。
まだ、ふとした気の弛みから、煙草に引き寄せられてしまう自分を感じる。

その一部始終を書いておけば、それなりに面白いBlogになったかも知れない。実際、断煙日記になっても構わないと思った事もあった。

けれど、正直に告白してしまうと、その余裕がなかった。
兎にも角にも断煙を続ける事。その事だけで頭の中は一杯だったし、その理性も時としてぶっ飛んでしまいそうになる程、煙草への誘惑は強烈でしつこいものだった。

断煙を始める前は、せめて、吸わないからと言って、喫煙者を弾劾する様な奴にだけはなるまいと思っていたのだが、ずっと煙草について考え、どうせ考えるのであれば…と、何冊も煙草に関する本を読んで来た今となっては、かなり過激な(今のわたしには、それは日本だからだとしか思えないのだが)嫌煙原理主義者となってしまっている。煙草について知れば知る程、その理不尽な、そして厄介な存在に敵対してゆくしかなかった。

日本は余りにも麻薬に関して寛容に過ぎるのではないだろうか?今はそう思っている。


ひと月も経ったら、禁煙本は捨てるつもりでいたのだ。もう用はない、と。

残念ながら、捨て去る事が出来ずにいる。むしろ、それにすがって、綱渡りの様な断煙の日々を渡り歩いている状態が今も続いている。

この1ヶ月間、読んだ本と言えば煙草に関するものばかりだった。にも拘らず、まだ、同じ様な本を求めている。断煙に踏み切った時の気分を持続していないと、断煙そのものが途切れてしまいそうな気がしたからだ。

煙草と言う存在が、これ程厄介なものとは思ってもいなかった。

あと1週間で、煙草から完全に自由になれるとは、とても思えない。情けないが、これが今のわたしが辿り着いた場所だ。それも全身全霊を掛けて辿り着いたと言って良い。


最初に煙草を吸った時の事を、何度も思い出した。
成人を過ぎて、わたしは煙草に手を出したのだ。長い間、それを誇りにすら思っていた。だが、何と言う愚かな行為だった事か。成人に達していながら、煙草に手を出すとは!
まともな分別や、判断力もあったろうに。何故易々とそれを捨て去ってしまったのだろう?

20歳を過ぎてから、人生は辛いものになった。その辛さを一時的にでも忘れたくて、煙草に手を出したのだ。半ば、自分の人生を捨ててもいた。
その頃の自暴自棄な考えは、今も顔を出し、判断を曇らせる。

わたしは思い違いをしていたのかも知れない。
自暴自棄になったから煙草に手を出したのではなく、煙草がわたしを自暴自棄にさせ、持続的に喫煙をさせようと囁いていたのかも知れない。


今も、その囁きは止まない。少し救われるのは、その囁きに対抗する術を少し身に付ける事が出来た事だろうか?

認知行動療法が、今回、役に立った。

ほとほと疲れても来たのだが、毎日煙草の事ばかり考えて暮らしている。
世の中にはもっと、わたしを楽しませてくれる事もあるだろうと思うのだが、断煙は全くの綱渡りの様で、気を緩めた瞬間に、落下してしまいそうだ。

これでも、一時より楽になったのだ。信じがたい事ではあるが、本当の事だ。

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