20240725

卵のように軽やかに

これがエスプリというものか!

ページを捲る度に、感嘆のため息をついた。


副題に「サティによるサティ」とあるように、エリック・サティ自らが、自分を語る作品なのだが、そこは音楽界きっての変人サティ。素直に一筋縄で括れるような語り方はしていない。

例えば批評家を批評するエセーでは、表向き絶賛の嵐のような文章が並んでいるが、ちょっと角度を変えてその文章を読んでみると、それが底意地の悪い皮肉に満ちている事がわかるような仕掛けがしてある。

同様な仕掛けは、各文章殆ど全てに施されており、注意深い読書が促されている。

だがどの文章も、非常に洒落ており、読み進める度に、万華鏡の様に、千変万化するサティの新しい魅力が展開され、堪能することが出来る。

ひとまとまりの文章の切れ目には、サティによるペン画が挿入されているが、これがどれも洒落ているのだ。

本の後半には、サティによる詩と戯曲が載せられている。これがなかなかどうして、良いのだ。

サティに詩や戯曲の才能があったとは、この本を読むまで全く知らずにいた。

エリック・サティの音楽は、これまでも好んで聴いて来たが、その背景にこれ程迄の創造的な世界が展開されていようとは、つゆ知らずに来た。

これからは、全く新しい姿勢と意味合いで、サティの音楽が聴こえて来るに違いない。

尚、表題の卵のように軽やかには、普通Allegrettoと表示されるテンポ記号の代わりに付せられたもの。エリック・サティの手に掛かると楽譜から個性的だ。

20240720

サラゴサ手稿

複雑な構成を持った物語である。

ポーランドの貴族、ヤン・ポトツキが生きたのは1761年から1815年。だが彼がフランス語で著したこの奇想天外な物語の全貌が、やっと復元されたのは21世紀になってからだった。


シェラ・モレナの山中を彷徨うアルフォンソ・バン・ウォルデンの61日間の手記によって、彼が出会った謎めいた人々と、その数奇な運命が語られている。

だが、その語られ方は、一筋縄で済む筈がなく、話の中の登場人物が別の物語を語り出し、その中の登場人物がさらに新しい物語を語るという入れ子構造がふんだんに駆使され、多い時には5層まで、その入れ子は増える。


更には、第一日目に登場した人物が、第五十日を超えて、再び登場してくるなどは当たり前。登場人物の相関関係も、複雑に絡み合っている。

それらをきちんと理解するだけで、私の頭はパンクしそうになった。


歴史的に正しい王位継承戦争の頃の王族の血縁関係が語られているかと思えば、それに絡めて、著者の完全なフィクションも織り込まれており、どこまでが虚でどこからが実なのかも判然としておらず、訳註を飛び出して、Webでの検索に頼らざるを得なかった事も一度や二度ではない。

話はレコンキスタ終了直後のイベリア半島を中心として、とりあえず展開されている。私はこの時期のヨーロッパ史を、余りに図式的に理解していた様だ。グラダナが十字軍によって攻め落とされ、それ以降、ヨーロッパは再びキリスト教文化圏として、歩んだように思っていたが、この物語を読んでみると、レコンキスタ以降も、イスラーム勢力は残り続け、キリスト教勢力との交渉も意外と盛んに行われていた様だ。

それ故、イベリア半島独自の文化も、形成された訳で、むしろキリスト教とイスラーム教が混淆していたと考えたほうが、圧倒的にリアリティーがある。

それに加え、ユダヤ教やロマの文化が混ざり合う。また、物語の舞台も、全ヨーロッパ、北中米にまで拡大する。

その証左となるのは、主人公アルフォンソを凌ぐ勢いと量で語られる、ロマの族長の物語だ。彼の圧倒的な記憶力と構成力によって、幾晩にも渡って、芳醇な物語が語られる。それは聞く者(読む者)を決して飽きさせる事がない。

物語の複雑さから、予期していたより、遥かに時間が掛かってしまったが、それを差し引いても、私の中に残ったサラゴサ手稿を読んだ歓びは、余りあるものがある。

この読書体験は、私の中でも特別なものとして、残り続けるだろう。

10日に渡る長い旅が終わった。

ダリ版画展

長野県立美術館で開催されている、ダリ版画展「奇想のイメージ」を観に行って来た。


この展覧会、入場料が一般で1,400円掛かる。だが私は身体障害者なので、私自身と付き添い一人が入場無料になる。この制度を使わない手はなかろう。

ダリは大好きな画家だ。中学から高校に掛けて、強く影響され、ダリ風の絵を何枚も描いた。だが、当時私が観ていたのは、主に油絵であり、ダリの版画をまとまった形で鑑賞するのは、今回が初めてだ。


ダリが版画に本格的に取り組んだのは、50代後半かららしく、生涯に1,600点余りの作品を残している。今回の展覧会では、1960年代から70年代に精力的に制作された版画を中心に、晩年に掛けて制作された200点余りの作品が展示されていた。

そこには地平線、やわらかい時計、蟻など、ダリ得意のテーマがふんだんに展開されており、ダリファンとしてはそれだけで心踊るものがあった。

用いられている技法としては木口木版を始めとして、エッチング、リトグラフ、ステンシル、エングレーヴィングと幅広く、ダリの版画に対する態度が本気だった事を、十分に伺わさせるものだった。

最初に陳列されていたのは、ダンテ『神曲』からインスパイアされた作品全点で、地獄篇はあくまでもおどろおどろしく、煉獄でベアトリーチェと出逢うシーンはあくまでも感動的、そして天国篇は途方もなく清らかと、ダリのイメージ力がふんだんに発揮されていた。

ダリと言えばなんと言ってもシュルレアリスムだが、その技法を惜しみなく発揮している作品群がその後に続く。

だが、場内の静けさに圧倒されて、私も笑い出さなかったが、かなりウィットに富んだ、ユーモア溢れる作品も多かった。ダリはゲラゲラ笑いながら観るのが、正しいと私は思う。

難を言えば、展示の仕方が、迷路の様に複雑で分かりにくく、私たちは危うく一部屋分の作品を見逃しそうになった。

朝の涼しいうちにと、やや早めに出掛けたのだが、200点と言えど、展覧会は充実しており、3時間半があっと言う間に流れ過ぎた。

だが、流石にダリは鑑賞に体力を使う。観終わった後、昼食に向かったのだが、その間、両足が攣った。

20240713

エブリデイ・ユートピア

21世紀になって、ユートピアを思い描く事を辞めてしまった。

きっかけとして、やはり1991年のソ連の崩壊が大きかった。マルキシズムによる労働者国家の建設は、中学時代からの具体的に実現可能な、ユートピア建設のヴィジョンだった。その歴史上の壮大な実験が、ソ連の崩壊というこれまた歴史上の大きな現実として、冷酷に突き付けられてしまった。私にはそう思えた。大きなショックだった。

ソ連ばかりではなく、他の社会主義陣営の現実も、それまで思い描いて来たユートピアのイメージからは程遠く、「歴史上の壮大な実験」は、事実上失敗に終わった。そうとしか考えられなかった。

なので本書、クリステン・R・ゴトシーの『エブリデイ・ユートピア』も、それ程期待もせずに、図書館から借りて来た。


だが、著者の本気度は、私の貧弱な想像力を遥かに凌いでいた。

彼女は、実際に試みられている、ユートピア建設の実例を、豊富に示している。

これには、正直驚かされた。

世界には、実に多くの人たちが、ユートピアを夢みる事を辞めずに、実現の可能性を探り、そして、実践していたのだ。

世の中は冷笑的な雰囲気に包まれている。ユートピアを語ると、それだけで、お花畑と片付けられ、手酷く打ち捨てられる。私もどちらかと言うと、その雰囲気に負けていた。

だが、こうしてユートピア実現の数多くの実例を示されると、遠い昔に捨て去ってしまっていた思いが、むくむくと蘇ってくるのだ。

まず、夢みることを辞めない。それが肝心なのだ。それはつまり、想像力をフルに働かせるという事だ。現実に縛られる今からその束縛を解き、想像力を思う存分飛翔させる事。そこからしか、ユートピア実現の実践は始まらない。

それは、今の私たちの現実に、疑問符を付けてみるという事でもある。

本書には、その疑問符の実例も豊富に示されている。

読み進めるうちに、私は次第に「その気」になって行くのを感じた。それは意外にも、心地良い解放感を伴う勇気だった。

私はこの本を、現実に敗北し、屈服しまくっている、現在の若者たちに、是非手に取ってもらいたいと願う。

ユートピアは死んではいない。それは十分実現可能なのだ。資本主義の行き詰まりは、もう誰の目にも明らかに進んでいる。もはや、新しいユートピアの建設を、私たちの手で掴み取るしか、未来はない。

必要なのは想像力、勇気、そして決断力。

その事を、本書はそっと私に教えてくれた。