どのアレント本を読んでも、必ずと言って良い程引用されている。
丁度今月は図書館から借りた本を全て読み終える事が出来たので、その本を本棚から取り出して来た。読み始めてすぐに強く引き摺り込まれた。
比較的短い、41篇の論考が収められている。それらが、息をも付かせない迫力で、次々と迫って来るのだ。
ハンナ・アレントの思考は、大戦間期という虚な、そして思想的に厳しい空間でまずは養われ、第二次世界大戦後という、困難な時代に開花した。まさに時代が産んだ思想家と呼んで構わないだろう。
だが、その環境を十全に活かしたのは、彼女が終始抱いていた、理解する事への強い衝動があった事を、本書は鮮やかに照らし出している。
ハンナ・アレントは哲学者と呼ばれる事を嫌っていた。「私の職業は政治論です」と明確に言い切っている。
ハイデガー、ヤスパースと言った錚々たる哲学者の指導を受けたハンナ・アレントは、しかし、哲学と訣別したとも言っている。これも彼女をして哲学者であり続ける事を、時代が許さなかったのだろう。
ドイツからの亡命ユダヤ人。その境遇は第二次世界大戦後の世界の中で、決して穏やかなものではなかった。何故ドイツ人はヒトラーを支持したのか?何故ユダヤ人は、迫害されなければならなかったのか?それらの疑問は、次々にアレントに襲い掛かり、アレントは必然的に、それらを理解する衝動を獲得したのだろう。全体主義とは一体何だったのだろうか?
彼女は書く。
理解することは、正しい情報や科学的知識をもつこととは違い、曖昧さのない成果をけっして生み出すことのない複雑な過程である。それは、それによって、絶え間ない変化や変動のなかで私たちがリアリティと折り合い、それと和解しようとする、すなわち世界のなかで安らおうとする終わりのない活動なのである。
この理解の定義に、私は大きく頷く。そして、自らに問いかける。私は、私たちを取り巻く世界を、ハンナ・アレントの様に明晰に理解しているだろうかと。
私には、私たちが、アレントと同様な、困難な不安定な世紀を生きているという自覚がある。そうした時代を生き抜く上で、十分に信頼できるとは、決して言えない政治家たちに命運を握られ、先行き定まらないままに、漂っている。
私もまた、それらを理解したいと強く意志しているのだ。
本書を読んでいて、その理解への衝動が、アレントと共鳴する事を、私は自分に禁ずることが出来なかった。
私には、政治的な才覚が、根本的に欠けている。その事を、大学時代、嫌という程思い知った。そんな私だが、政治は、私を避けては通ってくれない。どんなに嫌でも、面つき合わせて生きて行かざるを得ない。むしろそれだからこそ、私は世界を理解する事を強く望む。
幸いな事に、私たちは暗い時代を生きているのではない。それも確かな事。その行程を、後ろから、強い光で照らし出してくれる。ハンナ・アレントとは私にとって、そんな存在なのだ。
今回、不完全ながらも、それなりの集中力を持続して、大著を読み切る事が出来た。これからも、ハンナ・アレントやその他の著作を、一冊ずつ、私は読んで行くだろう。その根底に、今回自覚した理解への衝動がある事を、私は半ば誇らしく、半ば恥ずかし気に感じている。良い読書体験が出来た。