本書の前提になっている2冊の本がある。
1冊は言わずと知れたハンナ・アーレントの問題作『エルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告』であり、もう1冊はそれに異を唱える形で出版されたベッティーナ・シュタングネトの『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』である。
私はたまたまこの2冊を読んだ事がある。なので本書を読み進めるに当たって、何ら抵抗を感じる事なく、過ごす事が出来た。
これは幸運な事だった。
だが、読み終えて、この2冊を例え読んでいなくても、本書を読み進めるには、さほど問題は無いのでは無いかという結論に至った。
本書には、それだけ丁寧な引用と注釈が施されている。
『エルサレムのアイヒマン』が発表されてから、もう60年が経つ。この間この著作は、様々な場面で引用され、悪の陳腐さ─現代では悪の凡庸さ─の概念も、頻繁に人口に膾炙して来た。その間に〈悪の凡庸さ〉の凡庸化(矢野久美子)と呼びうる現象も起きて来た。また哲学の面で、歴史の面で、研究も大きく進み、従来の意味合いでの〈悪の凡庸さ〉概念は、その有効性を含め、洗い直しが必要ではないか?そうした問題意識が芽生えて来た。
本書は、その問題意識を明確化する為に書かれたものと言って良いだろう。
本書は2部に分けられる構成を持っている。
第1部には〈悪の凡庸さ〉をどう見るかについて、各研究者の論考が置かれている。いずれの論考も、〈悪の凡庸さ〉の概念を丹念に検証しており、読み応えがある。
第2部では1〈悪の凡庸さ〉/アーレントの理解をめぐって。2アイヒマンの主体性をどう見るか。3社会に蔓延する〈悪の凡庸さ〉の誤用とどう向き合うか。の3つのテーマを設定し、思想研究者と歴史研究者の間での座談会が組まれている。
読んでいて感じたのは、ハンナ・アーレントによって「発見」された〈悪の凡庸さ〉概念は、言わば地上の望遠鏡によって発見された惑星であり、本書によってアップデートされた〈悪の凡庸さ〉概念は、ハッブル宇宙望遠鏡によって、鮮明化された像であろうという感覚だ。解像度が上がり、ピントもしっかりあって来たのだ。
論考は〈悪の凡庸さ〉概念は無効なのではないか?という地平まで視野を広げたものだったが、座談会を通して、確認されたのは、〈悪の凡庸さ〉概念は、未だ古びておらず、未来に渡って生き続けるだろうという点を再確認するに至っていると思う。
この結論に、私は全面的に賛同する。
これはシュタングネト『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』を読んだ時にも感じた事で、この本は決してアーレントの〈悪の凡庸さ〉概念を否定する為に書かれたものではないという感想を持ったのだ。
確かに俗流の〈悪の凡庸さ〉概念の中には、不適切と言わざるを得ないものも出始めている。それには、全力で注意せねばならない。だがハンナ・アーレントの著作を丁寧に読み解き、その意図を注意深く受け取るならば、〈悪の凡庸さ〉概念がもたらすものは、未だに豊富に存在しているだろう。
本書の末尾には、参考になる書籍などが豊富に挙げられている。それらを含んで、〈悪の凡庸さ〉概念についての思考を深めて行くには、本書はタイムリーな出版だったと感じている。
本書は出るべくして出た、貴重な論集である。