20171211

『その名は、カメジロー』

『米軍(アメリカ)が最も恐れた男─その名は、カメジロー』を観てきた。

正直に言ってそれ程期待してはいなかった。映画を観たいという気持ちだけがあり、いろいろ探してみたのだが、どの映画館で掛かっている映画も、横並びで、決め手に欠けた。
この映画に決めたのも見に行く寸前の事だった。

「信州と沖縄を結ぶ会」に入っている。
辺野古や高江の問題などを考えている内に居ても立ってもいられない気持になり、集会に参加したのが切っ掛けだった。

11月の中旬にその会の会報No.5が届いた。その封筒には映画のパンフレットも同封されており、それがこの映画のものだった。

背中を押された。この映画にしようと決心した。

正解だったと、今では思える。期待していなかったものの、映画は予想を遙かに超えて良い印象を得ることが出来たからだ。

瀬長亀次郎。この人物を知っていた訳ではない。変な名前の人物。そんな印象しか、抱いていなかった。この名前のせいで、今ひとつ、見る気にならなかったのも正直な話だ。

だが、妙に気になる存在でもあった。この人物をもっと知りたいと、いつの間にか思っていた。

映画は一本のガジュマルの樹から始まる。この樹を瀬長亀次郎は愛した。どの様な嵐にも倒れない。その在り方を沖縄人の姿と重ね合わせていたからだ。

彼が色紙に書く文字はたった二文字。「不屈」。

そのように瀬長亀次郎は生きた。

貧しい農家に生まれた亀次郎に、母は事あるごとにこう言葉を掛けたという。

「ムシルヌ アヤヌ トゥーイ アッチュンドー」
むしろのあやのように真っ直ぐに生きるんだよ。

そのように瀬長亀次郎は生きた。

民衆の前に立ち、演説会を開くと、毎回何万人もの聴衆を集め、人々を熱狂させた。

亀次郎はその人間性そのもの、生き方そのもので沖縄人の心を鷲づかみにしたのだ。


終戦から間もない1952年4月1日、首里城跡地で亀次郎と米軍の闘いの原点とも言える出来事があった。

琉球王国のシンボルだった首里城は、米軍によって、徹底的に破壊され、代わりに琉球大学の校舎が建てられていた。

沖縄を占領していた米軍は、日本への復帰運動などを抑える為、アメリカが指名した行政官による琉球政府を設立することにした。

この日行われた創立式典では、星条旗と並んで将官旗がはためき、アメリカ陸軍軍楽隊の演奏が響き渡っていた。

ビートラー米民政府副長官がこう挨拶した。

「アメリカには植民地的野望はなく、不安定な国際情勢下に太平洋の前衛地としての当地に駐屯を余儀なくされている」

式典の最後に、代表の議員が宣誓文を読み上げ、それぞれが立って脱帽し一礼する。

その中で帽子も取らず、立ち上がることもしなかった人物がただひとりいた。最後列の席で、ひとり座ったまま。
会場にどよめきが拡がる。

亀次郎だった。

亀次郎のこの行動は、ハーグ条約を法的な根拠としたものだった。

「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」
そうした条文がある。


実はこの前日、立法院の職員が亀次郎の自宅に来て、何度も宣誓書への捺印を迫っていた。
既に亀次郎を除く全ての立法院議員の捺印が済んでいたが、亀次郎は最後まで説得に応じなかった。

亀次郎は、「立法院議員は、米国民政府と琉球住民に対し、厳粛に誓います」という条文の「米国民政府」の部分を削らないと宣誓書への捺印を行わないと言う。

「これはひとり沖縄人だけの問題ではなく、日本国民に対する民族的侮辱であり、日本復帰と平和に対する挑戦状だ」

困り果てた職員は宣誓書をいったん持ち帰るほかなかった。

再度見せられた宣誓書には、亀次郎の要求通り「米国民政府」の文字が消えていた。

しかし、これには見え透いたからくりがあった。宣誓書には、英語で書かれたものと、日本語で書かれたもののふたつがあり、英文を確認すると、こちらの方には「米国民政府」がしっかり残されていたのだ。

宣誓の場で、何度名前を呼ばれても、亀次郎が返事をすることも立ち上がることもなかったのには、そういった訳があった。

この日から亀次郎は「アメリカが最も恐れる男」「沖縄抵抗運動のシンボル」となる。


全てがこの調子だった。亀次郎の行動は、シンプルで「むしろのあやのように」真っ直ぐ。そして何より不屈だった。

亀次郎の影響力を恐れた米軍は、理由をごり押しして亀次郎を勾留するなどして、妨害しようとしたが、それらは悉く失敗に終わる。妨害にはならず、かえって亀次郎のカリスマ性を高めてしまったのだ。

彼、瀬長亀次郎は確かにひとりで米軍─アメリカを翻弄していた。

映画は豊富な史料を駆使して、亀次郎の生き方を克明に描き出して行く。そして、現在の沖縄で闘われている反基地闘争に、亀次郎の不屈の言葉がそのまま生きている事を示す。

今年は沖縄返還45年であり、日本国憲法施行70年であり、何よりも瀬長亀次郎生誕110年に当たる年だ。

その記念すべき年に、この映画が作られたと言う事は、日本の民主主義の前進にとって、大きな記念碑になるだろう。

亀次郎の生き方は、現在の沖縄に地続きで繋がっているのだ。