阪神・淡路大震災が起き、引き続いてオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。
この2つの出来事だけでも、1995年は記憶に深く刻み込まれた特別な年だった。
20年目の節目という動機から、1995年を振り返ってみようと思った。
漠然とあの年に何かが終わったと言う感触を持っていたからだ。それが何か確かめたかったのだ。
最初に速水健朗の『1995年』を読んだ。期待していなかったが、その予想は当たり、さほど深い内容を持った本ではなかった。新書なので仕方がないか。とも思ったが、1995年という年を中心に何が起きたのかは網羅されており、それをチェックするには都合の良い本だった。
それよりも期待していたのは中西新太郎・編『1995年─未了の問題圏』の方だった。
この本は横浜市立大学教授の文化社会学者中西新太郎が、雨宮処凛、中島岳志、湯浅誠、栗田隆子、杉田俊介の5人と対談し、
95年をエポックとして何が変わったのかを検討(対論を終えて)
しようとする意欲的な対談集だった。
しかし奇妙な本だった。
1995年に焦点を定めて語れば語るほどに1995年が後景化してしまう奇妙な対談集だったのだ。
湯浅誠を除いて他の4人は1995年に二十歳だった論客が並ぶ。そこで語られるものは労働(生きること)性(フェミニズム)そして政治・文化(マンガ・サブカルチャー)など多岐に及ぶ。
近過去を様々な局面から振り返る事が目的ならば、この対談は成功している。
しかし何度も1995年に立ち戻ろうと苦心惨憺しているが失敗している。
何故か?
気分や雰囲気は確かに1995年何かが終わったと言う実感にあるのだが、具体的に検討を始めると時代の分岐点はそこになかったことが白日の下に明らかになってしまうのだ。
その為に実質的にこの対談集は90年代後半から2000年付近で何が起きたのかを回顧する内容になってしまっている。
本の題名は素晴らしいのだ。
確かに1995年に起きた出来事はどれもが未了の問題として放置されている。
だがそれは怠惰の結果として放置されているのだろうか?
そうではなく、誰もが1995年に何が終わって何が始まったのか?何から何への変化だったのかを探し求め、しかし見付けられずに途方に暮れてきた「問題圏」なのではないだろうか?
1995年が時代の節目だったという実感が実は虚妄のものではなかったのかという史実に気付くという予想外の結果を遺してこの本は終わっている。
勿論本にはそうは書いてないのだが。