今回読了した真鍋祐子『自閉症者の魂の軌跡─東アジアの「余白」を生きる』もまた、鬼気迫ると表現したくなるほど、壮絶に、真摯に、そして真剣に自分と向かい合うことで、「余白」という鍵概念に到達し、そこを起点として自己と世界を模索し探索する事を可能にした精神の高みに到達した論考になっている。
著者は東京大学東洋文化研究所に籍を置く朝鮮シャーマニズムの研究者である。
だが、ここ迄の道のりは決して平坦なものではなかった。むしろ常人より遙かに厳しい道程を歩んできたとも言える。
それは小学生の頃のベテラン女性教師からの「虐待」とそれを切っ掛けとする級友たちからのいじめに始まり、院生・ポスドク時代のアカデミックハラスメントやフィールドである韓国で受けた政治的な迫害など遭遇した障碍には枚挙にいとまがない。
5年ほど前にはアスペルガー症候群の診断も受けている。
むしろ著者はアスペルガー症候群によって受けた様々な仕打ちに対して他罰的になることを許されず、それ故に自己処罰的に対処することによって、つまり勉強は嘘をつかないからという理由で、「勉強でみかえしてやる」と自らの心と身体を痛めつける事で辛うじて生き延びてきたのだろう。
そうした著者はテンプル・グランディンやエリック・ホッファーに強く共感するようになる。
例えばテンプル・グランディンの自伝
牧師は講壇から離れて、参拝者たちの前に立った。そして言った。
『あなた方一人ひとりの前に、天国に続く扉があるのです。開きなさい。そうすれば救われます』
(略)多くの自閉症児がそうであるように、私はすべてを文字どおりにとった。私の心はひとつのことに集中した─『扉』。天国へ続く扉。通り抜ければ私を助けてくれる扉。賛美歌の歌声が『歓喜と愛への永久なる証、この扉こそ祝福あれや』と、聞こえた時、私はほんとうにこの扉を探し出さねば─と確信したのだった。
(略)
そしてある日、夕食から自分の部屋へ戻る途中、私たちの寮のそばに別棟が建設中なのに気がついた。だれも働いていなかったので、その棟の周りを歩いてみた。そこから小さな渡しが突き出ていたので、上がってみた。足を踏み入れた場所は小さな物見塔であった。山々を望む三つの観察窓があった。
解放感が私の体にあふれた。何か月ぶりに、初めて、その時点での安らぎと将来への希望を感じた。愛と歓喜が私を包み込んだ。やっと探し当てた!『私の天国』へ続く扉を。
自閉症者であるグランディンは自分の人生の『扉』を感じるために、実際の扉を探し当てねばならなかったのだ。
著者はグランディンが扉に辿り着いたのと同じように、恐山に辿り着き、イタコと向かい合い、朝鮮シャーマニズムの研究に我が身を駆り立てる。
そして辿り着いたのが「余白」という鍵概念だ。
「余白」のイメージは村上靖彦が論じた「すき間」、或いは「裏側」の概念をヒントにしている。
定型発達においては、非イメージ的な意味を焦点として空間は濃淡をもち、イメージを欠いたすき間もまた意味を持つ。(略)自閉症児は意味を持たないのではなく、感覚的な形こそが意味である。それゆえ自閉症児にとって、形の不在は意味の不在・無意味であり、これは侵襲的なイメージである。だから、彼らは可能な限り明瞭で安定した形を持つ時空間を要求するのである。
朝鮮半島の政治力学の狭間で生き、そして死んだ者たちはこの「余白」に存在したのではないか?そして著者自身の生もまた東アジアの「余白」に存在していたのではないか?
そしてまた、私たちの生も死も。
つまり
構造と構造の狭間に埋もれた「余白」とは、言葉にはならない「経験」の多様な真実が吹き溜まった面と面のあわいを指す。
ここに至るまでの論考は決してスマートに一筋ではなく、紆余曲折を経ている。それはこの本の欠点でもあるが、同時に抗い難い魅力にもなっていると感じた。
もうひとつこの本を読んで深く共感した部分がある。それを引用しておく。
あるいは、震災直後から巷間に流れ始めた「花は咲く」の歌詞(岩井俊二作詞)はどうだろうか。「叶えたい夢もあった/変わりたい自分もいた」、「傷ついて傷つけて/報われず泣いたりして」という現在の「私の生」と3.11での「誰かの死」、「いつか生まれる君」と表現される未来の「誰かの生」は、実は決定的に断絶されているはずである。本来そこにあるべき「死者=死体」から目を背け、これを「花」という口当たりのよい比喩に置き換えることで、「誰かの歌が聞こえる/誰かを励ましている/誰かの笑顔が見える」と根拠のない「妄想」をささやきかけてくる。歌は続けて「誰かの笑顔」や「誰かの未来」は「悲しみの向こう側に」見えると語るのだが、その「悲しみ」とは一体誰のものなのか。もし、夢かなわず変わりたくても変われぬ自分や、傷つき傷つけられ報われず泣いた自分の「悲しみ」を、地震と津波で命をもぎとられてしまった人びとや、そこに遺された人びとの「悲しみ」に重ねたとすれば、それは死に対する何という冒涜であろうか。
我が意を得たり。
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