昨日(12日)はゲーテに救われたような一日だった。
意欲が減退気味だったのだが、詩集とゲーテ論を読み、持ち直す。
夜、さほど寒くなかったので(それでも防寒具は欠かせない)ダイニングルームと書庫に使っている部屋にある本棚の入れ替えをする。
女房殿はそこをヨーガ道場としても使っているが、やわなわたしは寒くなって来ると、なかなか暖房のない書庫部屋には足が向かわなくなる。
新書類をごっそりと書庫部屋に持ってゆき、その代わりに長編を主に、小説類をダイニングルームに持ち込んだ。
書庫部屋に行った時、本棚を見て「あるなぁ…」と感じた。無駄とも思える程本棚に本がぎっしり詰まっている。一生分の本がそこにあるような気がした。本当に無駄にあるのだろう。
今年は長編小説を多く読もうと決意したのだが、まだ実行に移す事が出来ていない。その為の環境を調えようと本の入れ替えを決意したのだが、書棚を見ながら、何故こんなにわたしは本を読むのだろうと疑問も感じた。もはやこれは嗜癖と言って構わない。
楽しい。それは確かなのだがその楽しさはどこから来るのだろう?単なる暇つぶしなのであれば、もっと軽い読み物で済む筈だ。軽い読み物に宗旨替えすれば同じ量でも本に費やす金額は遥かに安く済むだろうし、とっとと捨てる事が出来る。古本屋にもそれなりの値段で引き取って貰える。
本棚にはベストセラーが殆どない。
中には軽い読み物もあるのだが、これは目下のところ処分するかどうかで思案中だ。と言ってもそれはちくま新書であったりするのだが…。もう少し、軽々とした人間でありたいと思う。もともと軽薄な人間なのだから。
本を持って、何度も部屋を往復していると、それだけで結構暖かくなる。ダイニングルームの本棚を一杯にしようかとも思っていたのだが、少し柔軟性を持たせる為に何も置かない棚も作った。
本の移動を終えた頃には雨が降り出していた。昨日から雪になるかと思っていたのだが、夜半になっても雨のままだった。
目が冴えてしまい、読みかけだったゲーテ論を読み始める。
頭の中にどっさりとある本の姿が蘇る。また、何故、これほど読む(と言うより、ある)のだろうという疑問が頭をもたげえてくる。
ヘッセ論やゲーテ論は、わたしが読む事が出来る数少ない文学論だと思う。少しは議論に付いてゆける。けれど、わたしはヘッセやゲーテの何を読んで来たのだろう?
彼らの文章にはわたしを引き込む力がある。しかし、このわたしには彼らを生かす力がない。
ヘッセやゲーテを読む事、読んで来た事を、生きるという行為の中で、何らかの力にして来ただろうか?
しばしば文学はわたしにとってひとつの糧である。その様にしばしば書いて来た。…本当にそうなのだろうか?
読んでいた文学論を閉じ、『ファウスト』に手を延ばす。
何故読むのかは文学論に譲ろうと思う。先ずは作品をきちんと読んでから、文学論を読もう。
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そのまま午前7時まで読み続けた。
気温は2℃。やはり思った程寒くなく、外は雨。
だがその後気温は上がらず、むしろどんどん下がる。午前中には雪になり、そのうちに強い北風に飛ばされて吹雪となった。
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