20240627

「むなしさ」の味わい方

むなしさには取り憑かれ易い方だ。最近も自分がどうしても存在価値のない人間に思えて、そこから抜け出そうと足掻いて、無理をしては墓穴を掘るというような行為ばかりを繰り返していた。

そんな折、この本と出逢った。渡りに船とばかりに飛び付いた。


著者きたやまおさむさんは、以前フォーク・クルセーダースのメンバーとして活躍していた。ご存知の方も多いと思う。

現在は芸能活動からは足を洗い、精神科医として活動している。著書も多い。

ミュージシャンから医者への転身については、『コブのない駱駝』に詳しく書かれている。

本書の中できたやまおさむさんは、「むなしさ」という心理を、精神分析の文脈から分析し、それがどんな状態のものであり、どんな発生のメカニズムを持っているかを、丁寧に説明している。

その上で、「むなしさ」は、どんな人にも、必ずと言って良い程訪れる心理状態であり、避け得ないものであると結論している。

「むなしさ」が避けられないものであるとしたら、どうすれば良いのか?

「むなしさ」をじっくり噛み締めて、味わってしまえ。著者はそう述べている。

それがこの本の主旨だ。

そうすれば、「むなしさ」は、単なる苦しみから、何事か新しいものを産み出す、契機となるかも知れない。

この提案に、私は目から鱗が落ちる思いを感じた。

私はむなしさから逃げる事ばかりを考えていた。そこから姿勢を転じ、まずむなしさと積極的に向き合ってみる事から始めよう。そう思えて来たのだ。

この本の中で著者は、現代という時代が、「喪失」を喪失した時代だと指摘している。成程現代では、不足しているものは何もなく、欲しい物は何でも、Webを使うなどすればすぐに届けられる時代だ。だが、だからこそ、現代人が一旦「むなしさ」に取り憑かれると、深刻な状態に陥ってしまうのではないだろうか?むなしさを埋め合わせる為に、与えられる物は既に何もないのだから。

読み終えて、著者きたやまおさむさんが、何故この本を書く気になったのか?そこが気になった。今、何故「むなしさ」なのか?

私には、その答えが、本書の中に散りばめられているような気がするのだ。

この本は、かつての盟友加藤和彦に宛てて書かれた本なのではないか?

私の周りでも、何人もの友が自ら死を選んだ。私はその度に、やり切れない思いに沈んだ。同時に、いつも自死したのが何故彼であって、私ではないのか?そうした疑問の渦に巻き込まれた。

きたやまおさむさんにとっても、加藤和彦さんの自死は、やり切れない体験だっただろう。避けられないものだったか?そうした思いに、常に付き纏われただろう事は、想像に難くない。それは、ともすれば、自分をも巻き込む、大きな渦巻きだ。そこから抜け出すにはどうしたら良いか?

本書はそうした思いから書かれたように、私には思える。

「むなしさ」に付き纏われている、全ての人に、この本を勧めたい。

20240623

ロシア文学の教室

著者奈倉有里さんの作品を読むのは、これで3冊目になる。

最初に読んだのは、創元社から出されている「あいだで考える」シリーズの中の1冊、『ことばの白地図を歩くー翻訳と魔法のあいだ』だった。この本は本当に魔法で、ロシア語を学ぶ、学び方を指南する内容だったのだが、その誘い方が巧く、私はその魔法に本当に掛かり、この歳になっても、ロシア語をマスターする事が出来るような気にさせられて、学習を始めてしまった。

次に読んだのは、『夕暮れに夜明けの歌をー文学を探しにロシアに行く』だった。ソ連崩壊直後というタイミングで、ロシア国立ゴーリキー文学大学に学んだ体験談だった。ちなみに奈倉有里さんは日本人で初めてこの大学を卒業した経歴を持っている。

今回選んだのは、出版されたばかりの、『ロシア文学の教室』。


シンプルなロシア文学の紹介かと思っていたのだが、何と青春小説仕立てになっており、子どもの頃から小説を読み始めると没頭して周りが見えなくなる、不器用ながら真っ直ぐな青年、湯浦葵を主人公にして、大学でロシア文学を学ぶ学生と教授のやり取りが描かれている。

勿論、ロシア文学の紹介も、12人の文豪を採り上げて詳しく解説されており、予想は必ずしも間違ってはいなかった。

私は、自分を本好きだと自覚していた。それなりに本を読んで来たという自負もあった。

だが、奈倉有里さんと彼女の描く学生達の言動を読んでみると、その自負は、単なる自惚れだったと分かる。

私は、理系にしては、文学に親しんで来たという程度の存在であり、ちっとも大したことない。大学で文学を学ぼうと集まって来る学生達は、読んで来た本の数も多ければ、読みも深い猛者達であり、私なんぞは到底歯が立たない。

小説で採り上げられている文豪達の、選ばれた作品で、読んだ事があるのは、ドストエフスキーの『白夜』と、ゴンチャロフの『オブローモフ』だけで、他は全くの未読。中には初めて聞く名前の文豪もおり、ロシア文学の層の厚さを、これでもかという程、思い知らされた。

それを読んでの、学生達の感想もどれも鋭く、深く、それに対する枚下教授の受け応えも見事で舌を巻いた。

調べてみると、この作品に採り上げられている小説は、どれもメジャーで、全て図書館で読める事が分かった。

この小説に出て来る小説を、近いうちに全て読んでみたい。読み終えて、私の中にそんな野望が沸々と湧き上がって来るのを抑えられなかった。

ロシア文学の紹介だけでなく、本作は小説としても出来が良い。恋あり友情ありで、物語世界に、思う存分遊ぶ事が出来た。

私は著者奈倉有里さんと、幸福な出逢い方が出来たと感じている。この著者には才能がある。

20240614

魔の山

トーマス・マン『魔の山』を読み終えた。


今回で5回目になる。内1回は対訳と名打ってある抄訳だったので、完全に通読したのは正確には4回目だ。高橋義孝訳を選んだ。これが現在のところ最も新しい訳だからだ。これに加えて、原書、Thomas Mann “Der Zauberberg”を併読した。結果としては、これが功を奏したと思う。


長編である。だが今回通読して、感じたのは、これだけの長編でありながら、無駄が全く無いという事だった。巨大で純粋な結晶の様に、混ざり物を全く感じない作品だった。


今迄読んだ時には、主人公ハンス・カストルプにどうしても魅力を感じられず、感情移入出来ない事を強く感じていたが、今回は、苦手意識はやはりあるものの、それに捉われる事があまりなく、それを補って余りある、周辺を固める登場人物の魅力を味わう事が出来、するすると読み進める事が出来た。

病というものが、人間とその精神にいかなる作用を与えるのか?一言で言えば、これがこの小説のテーマだと思う。

それに加えて、執筆時に晴天の霹靂の様に勃発した、第一次世界大戦の影響が、この作品には色濃く現れている。

トーマス・マンは、極め付けで美しい「雪」の章の後、小説を続けてしまった事を、「構造的欠陥」と表現しているが、私はそうとは感じなかった。むしろ「雪」以降の展開が、『魔の山』という作品に、深みを与え、魅力になっている。そう感じた。

読んでいて、「面白い!」と思わず声を挙げてしまった程だ。

久し振りに、小説らしい小説を読破した。読み終えて、一人言い知れぬ感動に酔いしれた。満足している。