志村ふくみさんの文章に、最初に触れたのは、石牟礼道子さんとの対談『遺言』だったと思う。
ものの分かった者同士の話は面白いと感じ、以来気に掛けて来たが、評価の高いエセーを読んだのは、今回が初めてだ。
良い。
長年染色という仕事に携わって来た者が、到達した、深い境地を、私にも分かる、深く透明な文章で、垣間見させてくれる。
例えば、
「物を創ることは汚すことだ」と、まずみずからを戒めたい。
という言葉が、私の心に突き刺さる。
真っ白な糸、布、それらに手を下す。人の手が触れればまず汚れる。無垢のものをそのまま手の内にとどめることは不可能である。
それなのに人は物を創る。
創っている時はそんなことを考えず、ひたすら美しいものを創りたいと願って仕事をしてきた。
なんという崇高な矛盾なのだろうか。
また、次のような言葉がある。
植物の緑、その緑がなぜか染まらない。あの瑞々しい緑の葉っぱを絞って白い糸に染めようとしても、緑は数刻にして消えてゆく。どこへ──。この緑の秘密が私を色彩世界へ導いて行った。
山の岩肌から化石を採取する。岩から割ったばかりの化石の断面は、モルフォ蝶の様な、鮮やかな色彩を帯びていることがある。だがそれは、数分で消え、手には灰色のサンプルが残る。そんな体験は、私も何度もして来た。還元的な環境で残っていた色彩が、酸化した。科学的にはそれだけの事なのだ。だが、心の内にどうしようもないもどかしさが残る。
続きにこうある。
原則としては、花からは色は染まらない。というのは、あの美しい花の色はすでにこの世に出てしまった色なのである。植物はその周期によって色の質がちがう。たとえば桜は花の咲く前に幹全体に貯えた色をこちらがいただくのである。
やがて、色彩を仕事として来た志村ふくみさんは、ゲーテの『色彩論』に辿り着く。ゲーテが言いたかった事に、仕事の中で出逢う。
何という深い境地に、身を置いているのだろうかと驚く。
志村ふくみさんのエセーは、その境地に、私たちを優しく誘ってくれる。
私はこれからも、志村ふくみさんのエセーを、味わう事をやめないだろう。それは、私の中で育まれる、風雅な時の流れなのだ。