20190412

『バハールの涙』

何という映画だろう!

時折、自分が男である事が、溜まらなく許せなくなる事がある。この様な映画を観た後では、その思いがとりわけ強くなる。

映画のラストにテロップが流れる。
「ことばで証言する女性、忘れられた女性、全ての歴史を作る女性に捧ぐ…」
この映画には真実が描かれている。その真実を理解し、感動している私に、このテロップが突き付けられる。

そうなのだ、この映画は私に宛てて届けられた映画ではないのだ。

私は第二級の観客として、映画館の底に取り残される。それだけではない。罪人の眷族として私は存在する。その事をいやが上にも理解させられる。


冒頭からとてつもない緊張感が漂う。

映画は2014年8月3日、IS(イスラミック・ステート)の攻撃部隊がイラク北部のシンジャル山岳地帯に侵攻した出来事から着想を得ている。

弁護士バハールはそのクルド人自治区にある故郷の町で夫と息子と共に幸せに暮らしていた。だがある日町がISの襲撃を受け、夫を始めとする男たちは皆殺しにあい、息子を戦闘員として育成するため連れ去られ、自身も性奴隷として売り飛ばされてしまう。

バハールはTVで見掛けた救援組織との連絡に成功し、「人生で最も大切な30メートル」を、臨月の女性と共に命からがら突破し、自身を解放する。

やがてバハールは息子を取り戻し、同じ被害に遭った女性たちを解放する為、女性だけの戦闘部隊「太陽の女たち」を結成。ISとの戦闘に身を投じてゆく。常に銃を抱いて眠り、戦闘に於いては、最先端での銃撃に出撃するのだ。彼女たちは「女に殺された者は天国へ行けない」と信じるISの戦闘員たち(何と身勝手な信仰だろうか)に恐れられる存在となってゆく。

映画は屈辱と悲しみに満ちた過去と闘いに明け暮れる現在とを交互に映してゆく。

現在を私たちに伝えるのは、夫を地雷で失い、自らも隻眼となったフランス人ジャーナリスト、マルチドだ。彼女も国に娘を残し、単身戦闘地帯に身を置き、カメラとペンで現実を伝えようと奮闘している。

六文錢さんは自身のブログで、日本ではこの様な戦場カメラマンを異端者し、攻撃すらする事を激しく非難しているが、私も同感だ。


バハールという人物は実在しないが、その姿・行動は2018年のノーベル平和賞受賞者ナディア・ムラドそのものだという。マルチドは片目を失明しPTSDを患いながら、世界各地の紛争を報道し続けたメリー・コルヴィンと、ヘミングウェイの3番目の妻で、従軍記者として活動したマーサ・ゲルホーンがモデルになっているという。

この映画の底には、事実と真実が蕩々と流れているのだ。

終始緊張感が漲る画面の中で、思わずほっとし、愛おしくなる場面があった。「太陽の女たち」が皆で肩を組んで踊るシーンだ。
彼女たちは皆、地獄のような過去を生き、地獄のような現在を闘っている。その彼女たちが踊る。その境遇を知る私は、加害者の側に生きているが、それを思わず忘れ、深い感動と共感を覚えてしまった。

私を加害者から解放してゆく道筋があるとしたら、そういう共感から、彼女たちに近づいてゆく以外ないように思う。

バハールたちは、誘拐してきた子どもたちを戦闘員に育てる為の学校を、犠牲を伴いながらも奪還し、バハールは息子との再会を果たす。
マルチドも負傷しながらも、従軍記事をモノにする。

これはハッピーエンドなのだろうか?

私はこの映画で、地獄を生きるバハールたちを知った。そしてその地獄は未だに終わっていない事を知った。

幸いな事に、日本では平和な日常を営む事が出来ている。しかしその平和は、ちょっとした間違いで壊れてしまいそうな、危うい存在であることも、この映画から学ぶべきではないのだろうか。現にその平和を脅かす策動が日々進行していることも、私たちは知っているのだ。

繰り返しになるが、私は加害者の側に生きている。そこが出発点だ。それを確認しながら、ナディア・ムラドの『THE LAST GIRL」を読む。

途方に暮れる。どうすれば、何の力になれるのか?

地獄は現在進行形だ。

その地獄でバハールの流す涙は決して弱い涙ではない。強く優しい涙だ。

原題は「Les filles du soleil」どうなのだろう。「太陽の女たち」よりも「太陽の少女たち」と訳した方が正確なのではないだろうか?

戦場で無邪気に歌い踊る彼女たちは、まさに太陽の少女たちだった。