20170512

『わたしはダニエル・ブレイク』

六文錢さんのブログによるレビュー、『ケン・ローチ『わたしはダニエル・ブレイク』(I,Daniel Blake)を観る』を読んだ時から、この映画は観ようと心に決めていた。諸般の事情により、観るのが遅れたが、昨日(11日)ようやく観てきた。
ケン・ローチ監督は前作『ジミー、野を駆ける伝説』を最後に映画界からの引退を表明していたが、「いま、どうしても伝えなければならない物語がある」と引退を撤回。イギリスや世界中で拡大しつつある格差と貧困をテーマにメガホンを取った。
ケン・ローチ監督は言う。
人を人と思わない。人を辱めるようなことも、人を罰することも平気でする。まじめに働く人たちの人生が混乱したり、援助を受ける人たちが食べられなくなったりすることを武器のように使う、政府の意識的な冷酷さに突き動かされました。



これ程人をイラつかせるヴィヴァルディの「春」を聞いたことがない。映画の中でお役所仕事を象徴する電話の保留音がそれだ。

実直に働き、税金を納めてきたことを誇りにしているダニエル・ブレイクは59歳。心臓発作でドクターストップが掛かり大工の仕事を続けられなくなった彼は国の援助を受けようとする。だが政府から業務を委託された「専門家」の不条理な質問の結果失業手当が打ち切りになる。不服申し立てのために役所に電話をするが、保留音の「春」を1時間48分も聞かされた挙げ句、認定者からの電話を待てと突き放される。

職安で申請書を貰おうとするが、全てがオンライン。IT弱者のダニエルは「俺は大工だ。家なら建てる。でもパソコンは知らない」と叫ぶが「デジタル化ですから」のひと言でお終いだ。呆れた彼が「電話番号は?」と問いかければ「サイトにあります」。


かつてイギリスは「ゆりかごから墓場まで」のスローガンを掲げ、国民の最低限の生活を保障する福祉国家(安全保障や治安維持などに限定するのではなく、社会保障制度の整備からも国民の生活の安定を図る国家モデル)を誇っていたが、現在、その1945年以来最も弱者に過酷な時代を迎えているという。

財政赤字削減を公約に掲げたイギリス保守党デービット・キャメロンが首相になった2010年以来5年以上に及ぶ緊縮財政(福祉、住宅手当、社会保障の削減)と福祉保障制度改革の結果、「片手に指が1本でもあれば就労可能」と皮肉られる程に、イギリスにおける保障の認定基準は厳しくなった。

英デイリーミラー紙は2016年5月12日、頭蓋骨の半分を失って重度の記憶障害と半身麻痺を抱える男性に対し、英労働年金省(DWP)が「就労可能」と裁定したことを報じた。理不尽きわまりない話に聞こえるが、活動家たちはこのような決定を耳にしてもショックを受けない。もはや当たり前になっているからだ。
(財政赤字を本気で削減するとこうなる、弱者切り捨ての凄まじさ-Newsweek)

この映画に描かれたダニエル・ブレイクが、とりわけ不幸な訳ではない。

悪戦苦闘する中、ダニエルは求職者手当の申請をする為、職業安定所を訪れる。そこで彼は父親が違うふたりの子ども─姉のデイジーと弟のディラン─を連れたシングルマザー、ケイティ・モーガンと出会う。彼女は遅刻したせいで給付金を受けられないばかりか、減額処分になる違反審査にかけられると言われる。引っ越したばかりで道に迷ったと釈明しても受け容れられない。ダニエルも加勢し、抗議するが一緒に追い出される事になってしまう。

ケイティの荷物を持って送ってやるダニエル。そこで彼はケイティの悲惨な事情を打ち明けられる。ダニエルは自分の困窮も忘れてケイティたちの面倒を見る。

ケン・ローチ監督の作品が、いつも同じ様なテーマを扱っていながらマンネリに陥らないのは、彼の視点がいつも弱者と共にあるからだろう。そこにはいつもほっとする暖かみがある。

こうしてダニエルとケイティたちの弱者同士の絆は深められて行ったのだが…。


残念ながら映画の中でも、登場人物は誰ひとりとして実際に救われる訳ではない。ダニエルも、思い余った行動から、一瞬ヒーローになるが、それも長続きするものではない。

そこには救い難い現実がある。

けれどケン・ローチ監督はメッセージを込めて、この映画を作り上げたのだと思う。それは社会の変革を声高に訴えるのではなく、「人生は変えられる。隣の誰かを助けるだけで。」という地道で、だがとても強力なメッセージだ。

生きるためにもがき苦しむ人々の普遍的な話を作りたいと思いました。死に物狂いで助けを求めている人々に国家がどれほどの関心を持って援助しているか、いかに官僚的な手続きを利用しているか。そこには、明らかな残忍性が見て取れます。これに対する怒りが、本作を作るモチベーションとなりました。

ケン・ローチ
出典:公式サイト