今度は村井則夫『ニーチェ─ツァラトゥストラの謎』を読んだ。
この本を読み始めた理由は、甚だ不純な動機によるものだった。ニーチェの『ツァラトゥストラ』があまりよく分からなかったので、この本を読んで、それを要約して自分の感想としてブログに載せようと考えていたのだ。
高を括っていた。どうせ新書だから、それ程深い内容ではないだろうと考えたのだ。
甘かった。
この本は質量共に、新書のレベルを遙かに凌駕するものだった。
哲学書としての『ツァラトゥストラ』の解説をすると言うよりは、それ以前の神話的小説として読み解こうとしているように思える。
知識量の多さにまず驚かされた。
『ツァラトゥストラ』を読み解く上で、古代ギリシアの古典から、現代思想までが総動員される。
遠近法主義の解説では光学が語られる。奇妙な登場人物をアルチンボルトの肖像画で例える。ヒュー・ケストナーの『ストイックなコメディアン』を引用して『ユリシーズ』と比較してみせる。など、実に多芸なのだ。
奇書として『ツァラトゥストラ』を位置付け、その源流を古代ギリシアの風刺小説のジャンルであるメニッペアに求めるあたりは、まさに目から鱗が落ちた。
そうなのだ。ニーチェはまず有能な文献学者であったのだ。
この本は第1部として「ニーチェのスタイル」が語られ、『ツァラトゥストラ』読解のための道具立てが行われ、第2部「『ツァラトゥストラはこう語った』を読む」で、具体的な読解が試みられる構成になっている。
そのために時に過剰とも思われるような深読みが開陳されるが、大いに説得力を持つ仕掛けとなっている。
途中、ありがちな誤読の例が具体的に示されるが、まさにそのように私は読んでいた。思わず顔を赤くした。
『ツァラトゥストラはこう語った』という著作は、およそ出来合いの思想の解説や伝達を目指すものではなく、むしろ読者に対して幾重もの謎を仕掛け、読者がそこで躓き、思いあぐね、手探りで出口を探すような体験を求めている。
まえがきに示されたこの問題意識が、この本を貫く基本思想なのだろう。そして明らかに題名はここから採られている。
2種類の翻訳で読んだにせよ、私は未だ1回しか『ツァラトゥストラ』を読破していない。今度はこの本を地図として、再び挑戦してみようという気にさせられた。初読とは全く違った『ツァラトゥストラ』が立ち現れるに違いない。
この本の参考文献でも、『100分de名著:ツァラトゥストラ』でも、岩波文庫版の氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう語った』を勧めていた。今度はそれを読んでみるつもりだ。
実に刺激的な解説書だ。
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