20170127

『読書について』

遮二無二に、兎に角沢山本だけは読んできた。
引っ越しを機に蔵書を整理し、1/3程にまで減らしたが、それでも部屋の壁は本で埋め尽くされている。

読書はプラスの面だけでは無いのではないか?

薄らとそう感じたのは2年を費やした受験期と大学時代の事だった。

高校時代迄は勉強はしなかったが、何でも創意工夫次第で、自力で出来ると言う自信は揺るぎなくあった。これで勉強が出来れば、完璧だとすら思っていた。

受験期と大学時代、遅ればせながら私はガリガリと勉強をした。

勉強は出来るようになったが、明らかに独自性を喪失したという実感がある。

自分で考えると言う事をしなくなった。

何でも出来る筈の自分は姿を消し、何も出来ない自分が残滓のように残っているだけだった。

それなりの情熱を傾けて書いた論文は、オリジナルなアイデアのない、教科書のような代物になってしまった。


ショーペンハウアーが『読書について』という本を書いている。
読んでみて、やはりそうだったか!と感じ入った。

この本は
「自分の頭で考える」
「著述と文体について」
「読書について」
の3編から成っている。

岩波文庫からも出されているが、今回は読みやすさを優先して、分かり易い訳で定評のある光文社古典新訳文庫版を選んだ。

訳者は鈴木芳子さん。

訳者あとがきの冒頭で鈴木さんは

端正で切れ味鋭く、濃密

とショーペンハウアーの原文を評している。

耳に痛い話も少なくないのに、なぜか爽快!

とある。
この見解には諸手を挙げて同意したい。


3編のうち「著述と文体について」は、私には評する力量がない。この文章で、ショーペンハウアーはドイツ語の乱れに関して、豊富な具体例を挙げて警告しているのだが、その具体例を逐一理解出来る程、私にはドイツ語の文法や用法に関する知識がある訳ではないからだ。しかも19世紀のドイツの文化事情や社会的背景については、殆ど知識がない。

訳者自身による解説にあるように、

いまの日本には頭文字だけを抜き取った省略語や「起きれる」「食べれる」のような「ら」抜き言葉、あるいは匿名によるネットへの書き込みが蔓延しているが、ショーペンハウアー博士がこれを見たら、「ひとつひとつの語を切りつめる手法とは、まったく違う手続き」すなわち「簡明簡潔に考えるという業」「どんなに微細な変化や微妙なニュアンスにも厳密に対応する語を自在にあやつる国語力」を要請し、匿名批評家を「名誉心のかけらもない」と評するのではないだろうか。
とあるのを紹介するに留めておきたい。

ショーペンハウアーはドイツ語の名人でもあったのだ。

後の2編はほぼ同じ事を言っている。

「読書について」の第2パラグラフ冒頭でショーペンハウアーは

読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。

と喝破している。

だからほとんど一日中、おそろしくたくさんの本を読んでいると、何も考えずに暇つぶしができて骨休みにはなるが、自分の頭で考える能力がしだいに失われてゆく。

耳の痛い話とはこの様な言葉を言う。

私の頭の中には、雑多な知識は豊富に存在しているが、それは雑学と称されるものであって、真に生きる上で必要な知恵は、そこからは生まれてこない。

「頭の中は本の山
永遠に読み続ける 悟る事なく」
(ホープ『愚人列伝』第三章、194)

ナイーブに多読を美徳として信じていた訳ではない。けれど、心のどこかで読書する事は、無批判に良い事だと信じる私がいた事は否定出来ない。

何か事が起きると、すぐ本に答えを探していた。それは確かに考える事を放棄し、他者に委ねてしまう行為だった。

抜き書きしてみると只単に手厳しく、耳の痛い話だけの話になってしまうのだが、この本を通読してみると、そこにショーペンハウアーが抱いている、他者に対する深い愛情がある事が分かる。それをヒューマニズムと言っても良い。
それがあるが故に、この本は

耳の痛い話も少なくないのに、なぜか爽快!

と言いたくなる作品に仕上がっているのだろう。
知的な笑いがこみ上げてくる本にもなっている。

古典の教養に裏付けられ、それが滲み出るショーペンハウアーの文体はあくまでも凜とした佇まいを感じさせ、しかも比喩がこの上なく巧みだ。


気を付けたいのはショーペンハウアーは本を読むなと言っているのではないと言う事だ。彼自身大変な読書名人として知られている。肝要なのは、あくまでも自分の頭で感じ、考えよと言う事なのだ。

良い本を読んだ。

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