タイトルの「属国(Client State)」は70〜80年代に掛けて政権の中枢にあった後藤田正晴の2003年の発言から採ったものであるし、副題のAmerican Embraceはジョン・ダワーの有名な著作『敗北を抱きしめて』を引いている。
2008年の作品だ。その後日本は大きな変革の渦(またはその予感)に巻き込まれた。
古びてしまっている記述や、予測が現実との食い違いを見せている部分も多く見られる。
だが作品としては全く古びていない。当時の状況下でここまで出来るのかと感心する程、現在の日本及び日本を取り巻く状況を見事に予言している箇所に満ちている。
その為この本を読むことで腑に落ちる物事の多さに驚かされる。
ガバン・マコーマックの『属国─米国の抱擁とアジアでの孤立』だ。
この本では当時まだ生々しい記憶だった小泉純一郎の評価と批判にかなりの紙面が割かれている。
自民党をぶっ壊すと勇ましいかけ声と共に時代を作った小泉内閣だったが、彼がやったことはそのかけ声に値する変革だったのだろうか?
彼は郵政改革を旗印に選挙を戦ったが、その郵政改革とはそれ程迄に当時の日本に於いて重要な課題だったのだろうか?
むしろそれを重要視していたのは保険事業で日本への参入を狙っていたアメリカだったのではないか?
つまり小泉純一郎はアメリカの要求を第一に考え、それに応えるべくして多様なパフォーマンスを繰り広げていたのではないだろうか。
そしてそれ故に日本というアイデンティティを保つべく、ナショナリズムを前面に打ち出す必要性も感じていた筈だ。
だからこそ靖国への参拝にあれ程こだわったのだ。
かたや神道の価値観を守るナショナリストを演じ、かたやワシントンを喜ばせ忠誠を尽くしたいと熱望する指導者の下、日本のアイデンティティはひき裂かれてずたずたになっている。日本はアジアに属する国であることは間違いないだろう。しかし、アジアに於いて特別な優れた国であるという偏見に毒された指導者は(そして国民は)アジアの国であるよりもアメリカに属する国であることを選択してしまっている。
日本は大嵐に翻弄されたような20世紀の体験から、世界の超大国と同盟した時にもっともうまくゆくという教訓を得た。─同盟相手は最初の20年間が英国で、最後の50年間は米国だ。こうした同盟を結んでいるあいだ日本は安全と繁栄を享受したが、その谷間になった30年間は外交的に孤立し、結局戦争と荒廃が日本にもたらされた。したがって日本としてはコストがいかにかかろうとも国際的孤立だけは避けなければならない。だからこそ、世界に君臨する帝国に補助金を支払っても、日本にとってそれは十分採算にあう─こうした考えが日本人の安全保障観の深層にまで根を下ろし、冷戦が終わって安全保障をめぐる状況が本質的に変化しても、日米関係を再検証するなど、論外であった。この様に日本が米国の属国であるという「色眼鏡」を掛けることによって、数多くの現象が説明可能になる。
多くの国民が反対し、地元沖縄からは強烈な拒否に出会っても、辺野古に基地を作ることを頑として変更しないのは何故なのか?
またこれも多くの国民の反対を押して、何故原子力発電所にこだわり続けるのか?
更に何故、憲法の改正にあくまでも固執し続けるのか?
これらは恰も皆日本国内の問題であり、それを推し進める原動力は日本の中のナショナリズムであるかのように語られる。
だがこの本の中でこれらは全て米国の要求である事が明らかにされる。
こうした「改正」は自主憲法を制定して1946年の「米国」モデルを「日本」モデルに変更することだとよく言われるが、そのじつ自民党の憲法草案には、米政府の利益と要求が1946年に負けず劣らず反映されている。したがって、自主憲法制定は外国政府の指示に従って外国の利益のために行われるものであり、また国民の権利を制限し国家権力を強めるという点で例のない改正案である。
この本の末尾に今日我々に求められているものは何かが示されている。
地球を救うことである。
その為にこそ日本人の想像力、知恵、寛大さなどを最大限に「動員」すべきなのではないだろうか?