20250728

お許しいただければ

行方昭夫氏の編訳による続イギリス・コラム傑作選。続とあるように、正編も存在し、実はそれは本棚にある(これから読もうと思っている)。

正編同様、A.G.ガードナー、E.V.ルーカス、ロバート・リンド、A.A.ミルンの四氏によるエッセイ集だ。


末尾に出典が付されているが、これを読むと、これらのエッセイは2世紀も前に書かれたものである事が分かる。

全く古びていない。まるで今日の人々を観察して書かれたものの様にフレッシュなのだ。

それだけ、エッセイストの人間観察が、その本質をずばりと付いていて、人間というものはその部分で、さほど変化していないのだという事に気付かされる。

その観察眼は人間ばかりではなく、犬や猫などの動物、そしてステッキや傘などの無生物にも及んでいる。

本書では、各エッセイに続いて、編訳者行方昭夫氏の筆による「さらにお許しいただければ」という短い解説が付せられている。読者は各エッセイの見事さに感嘆の声を上げ、それに引き続いて解説で、よりエッセイを深いところで味わえる仕組みになっているのだ。

良いエッセイは美酒に準えられる事が多い。本書は上質なシャンパンの様な爽やかな飲み応えと、程良い酔い心地があり、それぞれの文章を、心地良く味わう事が出来た。

連日、猛暑が続く。強い陽射しに外出もままならず、部屋に閉じ篭もる日々に、有難いエッセイ集を得る事が出来た。

尚、既にお気付きの方も多いだろうが、本書に含まれているA.A.ミルンとは、あの『くまのプーさん』の作者と言った方が、通りが良いと思う。エッセイもモノにしていたとは知らずにいた。

20250719

イタリア食紀行

半日か、かかっても1日あれば読み終える事ができるだろう。最初、そう鷹を括っていた。ところが読み始めてみると、単にイタリア全土の食を紹介しているだけではなく、イタリアの歴史・地理・文化にも深く触れられており、採り上げられている情報量が半端ではなかった。

結局、読み終える迄2日半掛かった。


日本とイタリアの相似点、相違点が最初に述べられている。

どちらも細長い国だ。

だが日本は自国の郷土料理を大切にせず、食の均一化に直走ったが、イタリアは様々な制度・工夫を凝らして、郷土料理を大切にする道を選んだ。

その点を考慮すれば、食に纏わる歴史、地理、文化に大きく足を踏み込んでいる理由も理解出来る。

本書の構成はイタリアを、北イタリア・中央イタリア・南イタリア・島々に取り敢えず分け、それぞれの郷土料理の特徴を記載してゆく形を採っている。

その上で、郷土料理の伝統と文化を、グローバリゼーションに対抗しつつ、育ててゆく様々な工夫を紹介している。

そうした制度・工夫を知ると、日本がグローバリゼーションに対して、いかに無抵抗だったかが分かる。

どこに行っても、大体同じような味、同じような色の食材が出てくる。それにコンビニの流星、ネット販売の普及が追い風を吹かせる。

筆者は、イタリアの方針に賛意を示しているのだろう。読んでいて、イタリアの郷土料理の多様性に、私も羨ましさを感じざるを得なかった。

使われているオリーブオイルひとつ採っても、地域によって、千差万別なのだ。ましてやパスタの多様性は実に豊かで、500種類を超えていると言う。

翻って、今迄イタリア料理と一括して理解していた料理は一体何だったのだろうか?と言う事になる。

受験で、一応イタリアの歴史・地理は理解していた心算でいた。

だが本書を読んで、食を超えて、私が持っていたイタリア理解の底の浅さは計り知れないなという気分になった。

イタリアを知るという意味でも、本書は優れている。イタリアの食・歴史・地理・文化には、やたらと詳しくなった。

20250713

魚が存在しない理由

4年前、キャロル・キサク・ヨーンの『自然を名づけるーなぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』を読んでいた。だから本書『魚が存在しない理由ー世界一空恐ろしい生物分類の話』の「オチ」はあらかじめ知っていたと言える。

最先端の分類学である分岐学では、魚類という分類項目は存在しないのだ。

本書はその魚類の分類に一生を賭けて生きた、デイヴィッド・スター・ジョーダンの伝記である。


一見、とても魅力的な男であると感じる。

ルイ・アガシに師事し、生物分類に取り組んだ。特に彼の専門は魚類だった。

分類学の責務は、系統樹の形を解き明かし、この地球の混沌に秩序をもたらすこと。全ての動物や植物のつながりを整理して、生命の地図を作るのだ。

彼は、新種の魚を探して世界中を回った。何年も何十年も、辛抱強く彼は取り組んだ。ジョーダンの時代に判明していた魚類のうち2割は、彼と助手たちが発見したものだ。1000種ほどの新種を捕まえ、命名し、銅製の標本タグにその名前を刻印し、標本と共にエタノール入りの瓶に沈めておいた。ところが1906年の春、ジョーダンの輝かしきガラス瓶コレクションを崩壊させる大地震が起きる。カリフォルニア地震である。

瓦礫の中に立つジョーダン。自身のライフワークが台無しになった事実の前に立ち尽くす科学者は、ところが意外な反応をした。彼は諦めなかったのである。絶望もしなかった。

恐るべき強靭な精神力である。

それだけではなく、彼には信じがたい程のやり抜く力も持ち合わせていた。

このままであれば彼は尊敬に値する偉人と看做されてもおかしくなかった。

だが、彼の分類学には、ひとつの大きな目標があった。

それは師アガシから受け継いだものでもあった、生物の階級分けとも言えるものだった。

生物は下等なものから上等なものに階層分け出来る。ジョーダンはそれを解明する為に分類学に打ち込んでいたのだ。

行き着く先は自ずから決まっていたようなものだ。

優生思想。彼はそれに嵌りこんでしまう。

大学で、理系の学生のかなり多くが、優生思想に染まるのを、私はどれだけ残念に思って来ただろうか。

問題は、ジョーダンが彼の業績に基づいて、社会の中でそれなりの地位に付いていたということだ。

彼はアメリカで、ナチス・ドイツより遥かに先に、優生思想に基づく施策を実行していた。

デイヴィッド・スター・ジョーダンが、後世に名を残せなかったのは、主にこれがその理由だろう。

強い意志と、強靭な実行力と、やり抜く力を持ち合わせていた彼は、むしろそれ故に偉人として君臨することは出来なかったのだ。

そして彼がその一生を捧げた魚類の分類学は、分岐学の隆盛により、魚類という分類項目ごと消え去る運命にあった。

彼は、幸福だったのだろうか?

本書はそうしたジョーダンの人生を、軽やかなタッチで、鮮明に蘇らせる。ルル・ミラーというサイエンスライターの出現は、本書が示す明らかな朗報だと私は確信する。